2024.08.14
マティーニのほかにも Vol.9◆
「別れなさい」
そんな父の静かな声とともに、バカラグラスがウォルナットのダイニングテーブルに置かれたのが、ちょうど1ヶ月前のことだ。
「お父さま、私…」
父のグラスを満たしている、深い茶色の液体。
その正体は、由紀が作ったゴッドファーザーだ。
ウイスキーに、杏のリキュール・アマレットを加えたシンプルなカクテル。カクテルが好きな快利と付き合っている影響で、由紀もいつのまにか作れるようになった。
この日は自宅で両親と由紀の3人で夕食を済ませたあと、9年続いている快利との付き合いについて、珍しく父から質問をされ…。
快利のことをポツリポツリと話しているうちに、父の眉間にはだんだんと深い皺が寄りはじめる。
そんな父の態度にどうしようもない苛立ちを募らせた結果、由紀は小さな反抗のような気持ちで、「独裁的な父親」という嫌味を込めて、食後酒にゴッドファーザーを作って出したのだった。
けれど…。
由紀が渡したグラスに注がれていたものが、ただのウイスキーではなかったことに気づいた途端。父の声には、有無を言わせぬ響きが滲んだ。
「別れなさい、由紀」
「な…どうして?そりゃ、お父さまが快利のことあんまり気に入ってないことには、ずっと気づいてるよ。
でも彼だって、今はアパレルの仕事だって始めたし…」
「アパレルだかなんだか知らないけどね、お前の顔を見ていれば、彼がどんな男なのかはわかるよ」
「なによそれ。お父さまが最後に快利に会ってから、もう何年も経つじゃない。たかだか数回しか会ったことないくせに、お父さまに快利のなにがわか…」
そこまで言い返した時、父の鋭い目線が由紀を貫いた。
「由紀」
「……」
「その何年もの時間のなかで、嫁入り前の娘がこうして、どんどん酒を作ることばかり上手くなっていく」
自分の密かな抵抗が火に油を注いだ結果とはいえ、父の目を見た瞬間に由紀は悟った。
― あ、これ…もうダメだ。
この目をしている時の父にはまさに、誰も逆うことができない一家の長──ゴッドファーザーそのものなのだ。横暴と言ってもいいほどに。
一縷の望みをかけて、ひっそりと台所に佇んでいる母に目線を送る。しかし、母の瞳にも、すでに諦めの色が浮かんでいた。
「由紀、わからないお前じゃないだろう。姉さんの、仁美の二の舞は勘弁してくれ」
ダメ押しのごとく姉のことまで出されてしまっては、もう、完全におしまいだった。
家族の中で、腫れ物のように扱われる姉。悲惨な過去を持ち、大いなる過ちを犯した姉。
これ以上由紀が我を通したら、ようやく姉の“あの事件”から立ち直ったばかりの家族が、今度こそ本当に壊れてしまうかもしれない。
どうしようもなくなった由紀は、長い沈黙のあと、蚊の鳴くような声で答える。
「……はい…」
どうにかそう答えると、アンティークの調度品で美しく飾られた広いリビングから出ていく。
震える手で手すりを握りながら、2階の自室へと引き上げる。
そして、幼少期から愛用し続けているシングルベッドに突っ伏し、ひとしきり泣くと──。
ゆっくりとスマホを取り出して、『もう会えない』と、快利にLINEを送ったのだった。
◆
それ以来、秘書としての仕事は淡々とこなしているものの、父との会話は全くない。
父と娘ではなく、院長と秘書。
どうにかそう自らを納得させて仕事に向き合っているのに、無神経に「由紀」と呼びかけてくる父には、心底嫌気がさす。
少しでも、父と離れていたい。
その一心のなせる技で、仕事は定時である17時までに完璧に終わらせられる効率性が身についたのは、怪我の功名といったところだろうか。
「院長、お疲れさまでした」
今日も時計の針が17時を指すなり、由紀は荷物をまとめて院長室を出ていく。
「由紀…」
背後で父の呼びかける声が聞こえたが、無視して扉を閉めた。
帰る場所は、同じ上野毛の実家ではある。けれどせめて、父の運転するメルセデス・ベンツSクラスには乗らずに、電車で帰宅するのだ。
夕飯もここ1ヶ月は父と時間をずらすか、田園調布雙葉学園時代からの幼なじみの友人たちと取ることが多い。
いっそ、快利が住む代々木のマンションで同棲してしまおうか、と思うことがある。
しかし、その衝動を抑えることだけが、今の由紀が父に対して見せられる、最大の従順さなのだった。
父に対する由紀の複雑な感情が揺らいだのは、その翌日のことだった。
「え…?お父さま、昨日帰ってきてないの?」
「そうなのよ。由紀ちゃん、様子見てきてね」
母の心配そうな声に、わずかな不安がつのる。駐車場にもベンツは停まっておらず、どうやら本当に帰宅していないようだった。
「おはようございます…」
恐る恐るドアを開けた院長室は、もぬけの空だった。
パソコンを立ち上げて今日の院長のスケジュールを確認するものの、特にこの時間に入っている予定はない。
もちろん、昨夜も会食の予定なども入っていない。父とは冷戦状態が続いているとはいえ、昨日のうちにしっかり確認したはずだ。
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