2024.06.19
マティーニのほかにも Vol.5内示が出たその日。
橘は、いつものようにあのレストランバーでリサと落ち合った。
いつものようにマンハッタンを頼み、だんだんと茜色に染まっていくセントラルパークを見ながら、リサを待つ。
どうしてなのか、リサが訪れたのはいつもよりも遅い時間だった。橘のマンハッタンのグラスには、すでに残りわずかな量のカクテルと、チェリーしか残っていない。
そして…。
「一緒に日本に帰ろう」という一か八かの誘いは、リサの瞳から無言のままこぼれ落ちた涙で、否定された。
最後のマンハッタンのチェリーは、もうリサに掠め取られることはなく、空っぽになったグラスに沈んだままだった。
◆
「あぁ、それからだな…。俺が仕事にがむしゃらになり出したのは」
橘の口から無意識のうちに漏れた言葉に、バーテンダーが怪訝な顔をする。
「すみません、何かおっしゃいましたか?」
「いや、なんでもないよ」
12年経った今でも、これだけはっきりとした手触りでリサとの恋を思い出せてしまうことに、橘は苦笑いする。
リサと別れたあの日以来、マンハッタンは飲まなくなった。
飲んだら、彼女を思い出してしまうから。
軽率に思い出してしまうにはあまりにも、彼女のことを愛していたから。
結局帰国してから橘は、情熱を持ちきれない仕事から離れて、今の証券会社に転職した。そしてすぐに妻と出会い、結ばれ、娘を授かり、今に至っている。
今ならわかる。男というのは、守りたいと思う大切な人のために頑張るものなのだ。
あの頃、なぜだか仕事に夢中になれなかったのは、自分がリサの夢に乗っかってしまっていたからなのだろう。
12年という年月をかけて、やっと胸のつかえが取れたような気がした橘は、すっかり空になったグラスをバーテンダーに返しながら口を開く。
「もう1杯くらい、何か飲んでいこうかな。…マンハッタン、お願いできる?」
今ならもう、素直な気持ちでマンハッタンを飲むことができるだろう。
いい年をしてこんなセンチメンタルな気持ちに浸ることがやけに恥ずかしく、けじめをつけるいい機会として、12年ぶりにマンハッタンを注文する。
いや…今ならもう、リサのことを想っても、許されると思ったのかもしれない。
「マンハッタン、もちろんです。なんといっても別名“カクテルの女王”、ですからね」
「カクテルの女王か!そりゃいいや」
思えばリサは、女王のように気高い女性だったのだ。誰かに守られ、活力の材料にされるような器ではない。
けれど、橘が奇妙な符号の一致に愉快な気持ちになっていた、その時だった。
心地よいステアの音がしたあと。バーテンダーが、口髭を歪めながら悔しそうに声を絞り出す。
「ああ…橘さん、大変申し訳ございません…!先ほどチェリーが切れてしまっておりました…。
もしよろしければお詫びにご馳走しますので、こちらのカクテルではいかがでしょうか───」
申し訳なさそうにバーテンダーから差し出されたのは、どう見てもマンハッタンそのものだ。
ただし…チェリーの代わりに、生い茂った木々のようなパセリが彩りを添えている。
「<セントラルパーク>でございます。マンハッタンに、チェリーのかわりにパセリの葉を飾ると<セントラルパーク>というカクテルになるんです」
「へぇ…」
意表をつかれた形になったが、橘は素直にグラスに口をつける。
12年ぶりに舌の上に広がる、ウイスキーとスイート・ベルモットの甘み。あの頃と変わらない、アンゴスチュラ・ビターズの香り。
けれど…真っ赤なチェリーに代わって添えられたパセリが、沈みゆく夕日ではなく、子どもたちが駆け回る朝方のセントラルパークを彷彿とさせる。
「はは、全然思い出さないや」
「すみません、何か…?」
「いや、なんでもない。初めて飲んだけど、美味いよ」
予期せぬ方法で未練にも近い感傷を吹き飛ばされた橘は、楽しげな笑みを浮かべる。
あの頃から12年経ち、家族との笑いじわが刻まれた口元を緩めて。
「うん。娘の夏休みに合わせて、久しぶりに家族でニューヨーク旅行でもしようかな。セントラルパークを散歩したくなったよ」
その言葉に、まったく違った意味を込めていたことに、きっとバーテンダーは気づいていないだろう。
― さようなら、俺の女王様。
東京の夜は、いつのまにかすっかり更けている。
ニューヨークは、まぶしい朝だ。
▶前回:一橋卒の28歳エリート証券マン。上司から誘われ、日本橋のバーに渋々付いて行ったら…
▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト
▶Next:7月3日 水曜更新予定
橘と別れ、女優になるという夢を取ったリサ。あれから12年前後の彼女は…。
橘の海外赴任時代の気持ちと、家族を持った今の気持ちも、それくらい切り替えられているのだろうね。
次回は、12年前は女優の卵だったリサの話。素敵な女優になっていたらいいな。
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