2024.05.29
マティーニのほかにも Vol.3「……」
「……」
瑠美の隣に座った秀司は、居心地悪そうな表情を浮かべて黙ったままだ。
しかし、どちらも口を開かずにじっと座っていただけなのにもかかわらず、ふたりの前のカウンターには自動的に、2つの銅のマグカップが置かれた。
「お待たせいたしました。モスコミュールでございます」
無口なバーテンダーが、視線を伏せたまま静かな声で告げる。
注文を済ませておいたのは、もちろん瑠美だ。秀司が来たら出してくれるように、馴染みであるバーテンダーにあらかじめ頼んでおいた。
ふたりはしばらく黙ってそれぞれのマグを見つめていたかと思うと、どちらからともなくおずおずとマグを合わせる。
そして「乾杯」という言葉の代わりに──互いに、「ごめん」と小さく呟くのだった。
「…昨日は、感じ悪くてごめん。っていうか、ここのところずっと態度が悪かったと思う。許してほしい」
「ううん。私のほうこそ、キツイ言い方しちゃったと思う。ごめんね」
辛口のジンジャーエールの刺激と、爽やかなライムの香りがするモスコミュールが、瑠美の喉を滑り落ちる。すると途端に胸の中のわだかまりがほどけて、素直になれるような気がした。
それはきっと秀司の方も同じなのだろう。ポツリポツリと、昨晩のことについて話し始める。
「4月に配置換えがあってから、仕事が思うように進まないことがあって。昨日は冷静になれなかった」
「そっか、異動があったって言ってたもんね。もっと労うべきだったよ」
「いや、そうじゃないんだ。それだけだったら、瑠美にあんなみっともない姿見せないよ。それだけじゃなくて…」
「他にも何かあるの?」
せっかく素直に話し始めてくれた秀司だが、どうにも歯切れが悪い。焦れた瑠美がせっつくと、秀司は辛そうに眉間を押さえながら搾り出すように言った。
「瑠美、昨日は『深夜のお客さんの施術がある』って言ってたよね。ここのところ毎週火曜日は、そう言って深夜に帰ってくる。でも…。
もし他に好きな人ができたり、俺に愛想が尽きたりしたんなら…そんな回りくどい嘘つかないで、はっきり言ってほしいんだ」
顔を歪めながらやっとのことで言葉にした様子の秀司だったが、瑠美は、秀司が一体何を言っているのかわからなかった。
「え…?ごめん、なんでそう思うの?」
まったく心当たりのない瑠美は、戸惑いの言葉を返すことしかできない。
けれど秀司は、そんな瑠美のことをますます辛そうな表情でじっと見つめたかと思うと、ゆっくりと手元のスマホを差し出す。
その画面には、瑠美の経営するエステサロンのGoogleのページが表示されていた。
「ここまで来たら、もう全部言うよ。
瑠美のサロン、来月で3周年だろ?俺、サプライズでオープン記念日に花を贈るつもりで、Googleで住所を確認してたんだ。そしたら、ここに…」
瑠美は、秀司の指さす箇所をゆっくりと覗き込む。するとそこには青い時計のマークに並んで、
<火曜日 定休日>
と記されているのだった。
「…ん?あれっ。コレ、間違ってるね」
「…え?」
「えーどうしよう。これってGoogleに連絡すればいいのかな?」
「火曜日、定休日じゃないの…?」
「違うよ?うちはお客様次第。定休日とか無いから一緒に暮らし始めたんじゃん。
火曜は定期のお客様ばっかりだったから全然気づかなかった。え〜、いつからこうなってたんだろ」
「じゃあ、昨日めちゃくちゃ帰りが遅かったのも…」
「普通に、22時にお店の施錠して、そのあとお店の子と飲みに行っただけだけど」
「じゃあ別に、仕事だって嘘ついて誰かと遊びに行ってるとかも…」
「ないない!ええ〜?なんでそんな発想になるわけ?秀司、仕事本当に大丈夫?さすがに思い詰めすぎだって!」
しばしポカンとした顔を浮かべていた秀司だったが、会話の内容をようやく理解しはじめのだろう。一気に顔が赤くなり、頭を抱えた。
「マジで?俺、てっきり瑠美がもう…。うわぁ、ダサすぎる」
「うん。ダサすぎるね」
「…すいません、マスター。もう一杯お願いします…」
瑠美の返答にますます追い詰められた秀司は、なみなみとマグに満ちていたモスコミュールを一気に飲み干すと、バーテンダーにお代わりを注文する。
しかしバーテンダーは、口元だけにほのかな微笑みを浮かべながら言うのだった。
「もう、モスコミュールじゃなくてもよさそうですが?」
モスコミュールのカクテル言葉は、「仲直り」だ。
2年前。付き合い始めたことを揃ってバーテンダーに報告すると、普段無口な彼が珍しく饒舌になり、「ケンカをした時にはモスコミュールですよ」と教えてくれた。
それ以来どんなに険悪なムードになっても、瑠美と秀司は何度もモスコミュールで危機を乗り越えてきているのだった。
「改めましてもう一度、ごめんなさい」
結局もう一杯お代わりのモスコミュールを頼んだ秀司は、Googleへの文句を垂れながら、今度はゆっくりとマグを傾ける。
バツの悪そうな秀司を前に時計を確認すると、時刻は23時半。
瑠美は思わずホッとして、バーテンダーに笑顔を見せた。
「モスコミュールのカクテル言葉は、実はもう一つあるんです。
『ケンカをしたら、その日のうちに仲直りをする』。
瑠美さん。男って、なかなか素直になれないバカな生き物ですからね。秀司さんが素直になれないときには、ケンカを変に長引かせないためにも、あねさん女房の瑠美さんから折れてあげて下さいよ」
「あねさん女房は余計でしょ!」などと言いながらも、あの時バーテンダーから受け取った忠告は、こうして2年経った今も役に立っている。
― バーってほんと、人生勉強の場所よね…。
そうしみじみと感じ入りながら、瑠美もじっくりとモスコミュールを味わう。
一体、これまでにふたりで何杯のモスコミュールを飲んだのかわからない。
けれど瑠美は、秀司と一緒にいるためだったら──。
この先何百杯、何千杯でも、モスコミュールを飲むつもりだ。
▶前回:初デートで渋谷のイタリアンに連れて行ったら、「なんか違う…」と男がフラれた理由
▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト
▶Next:6月5日 水曜更新予定
年上彼女の瑠美に翻弄され、大恥をかいた秀司。職場での秀司の顔は…
ちゃんと謝ったり話し合いの出来るカップルはいいね。
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