2024.03.02
報われない男 Vol.4
― 今日も帰ってきてない。
午前7時半。広尾の大輝のマンションから逃げるように帰宅してきた京子は、朝帰りをとがめられたら…という恐れを抱えて入った部屋のどこにも夫の崇がいないことに、ほっとしたというよりも落胆した。
― カドくんに会いたい。カドくんと話したい。
こんなに強く崇の存在を求めるのはいつぶりだろうかと京子は思った。感情の起伏が弱い人生を歩んできた京子にとって、どう扱えばいいのか、戸惑い持て余す程の強い感情だった。
長坂美里は…不意打ちながら静かに現れた。不倫相手の妻との対面という言葉から想像する激しさはまるでなかった。そのせいなのか京子は闘う姿勢をとるタイミングを逃してしまい…手紙を読んでもらえたでしょうかと聞かれると、あっさり素直に頷いてしまっていた。
ただの文字でしかなかった≪長坂美里≫が実体化した衝撃で、鼓動が痛いくらいに速くなり、のどが渇く。
立ち話で話を始めようとした美里を、どこか落ち着く場所で、とカフェを提案したのは京子だった。美里はすぐに同意した。
「私、ずっとキョウコ先生のファンだったんです」
並んで歩きながら、美里は会えてうれしい、話ができてうれしいと喜びの言葉を繰り返した。さほど有名ではない作品の目立たぬセリフまで覚えていて、その魅力を語り続ける美里の方を、京子は1度も見ることができないままカフェに着いた。
大学から歩いて12、3分のところにあるカフェ。学生たちが利用する駅とは逆の方向にあるからか、いつも客が少ない。京子は授業の前に何度か利用したことがあったが、一度も知り合いに会ったことはなかった。
席に案内してくれた店員に飲めそうにもないコーヒーを頼む。京子の対面に座り、私も同じものでと言った美里を、京子は今日はじめて…自分を奮い立たせて直視した。
年齢は25歳前後だろうか。
艶のある黒髪は1つにまとめられていて、厚めの前髪は眉の上でキレイにそろえられている。青みの強い白い肌で頬はほんのりと上気している。目は二重だが殊更に大きいとかの目立った印象はない。常にほほ笑んでいる唇には、薄く淡い色の口紅がキレイに塗られている。
骨格の小さな顔にそれぞれのパーツがバランス良く配置されていて、瑞々しさはあるが、とびきりの美人とか個性的とかいうジャンルではない。脚本に書くとしたら…ごく普通のどこにでもいると表現されるキャラクターの顔だろう。
映像にするための文字を書く。それが脚本家の仕事。その仕事柄、京子には普段から、目の前の事象を文字化しがち…という癖がある。その自分の癖が、冷静になる必要がある時には役立つ癖であることを京子は知っていた。
「手紙、読んでもらえたんですね」
先に口を開いたのは美里だった。手紙のことを聞くなら自分からだと思っていた京子は不意をつかれた形になったが、平静を装う。
「事務所に私宛に届いたのだから当然そうなると思いますが」
「はい。でもキョウコ先生に手紙を送るって私にとっては神に送る手紙のようなもので。万年筆もそのために買いましたし、文章にも失礼なく…とか、あ、もちろん便箋も封筒もいいものを選びましたし、何度も何度も書き直したので。読んでもらえて本当にうれしいです」
「…なぜわざわざ手紙に?メールやSNSの方が簡単でしょう?」
「神様にお願いをするのに、簡単な方法を選ぶなんてできません!」
美里は、そんな当然のこともわからないんですか?とでも言いたげなキョトンとした表情をしている。
― この子の言動はとても不思議。
突然の登場という不意打ちの衝撃が少し和らぎ、京子はようやく冷静に考えられるようになっていた。話を立て直し、論点を整理しなければ。京子は静かに切り出した。
今の20代も、【◯◯に100万点】とか使うんだね。子どもの頃に見たクイズダービー以来だよ、そんな表現。あの頃は、はらたいらさんが何者なのか分からなかった。正体が分かったのは、彼が亡くなった時。
しかし、長坂美里の話は矛盾しないけど嘘くさい。京子さんと大輝の関係と大差ないのかも知れない。
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