選ばなかった人生と、恵比寿のカスエラ。麻布競馬場による4号連続書き下ろしエッセイ vol.03

恵比寿は、昔の彼女との苦い思い出が貼り付いた街


上田さんというゼミの同期がいた。恵比寿と白金台の間、“ガーデンプレイス”と“自然教育園”の間くらいに住んでいた。

D2Cブランドを起業し、その立ち上げに追われていた頃の彼女と、僕は当時付き合っていた。もう5、6年も前のことだろう。

このお店は、その上田さんとよく通った店だった。

「あなた、当時ガチ恋してたのにねぇ。そもそも結婚するつもりはあまりないけど、結婚するなら上田さんがいい、って」

ざくざくと思い切りのいい厚みでカットされた生ハムをフォークで口に運びながら、北野先輩がしみじみと振り返る。

北野先輩にもいろいろと相談していたその恋は、残念ながら何かしらの好ましいゴールに至ることはなかった。

上田さんが大阪にリアル店舗を出すとかで忙しくなったことと、僕は僕でちょっとしたビジネスを立ち上げるとかでこれまた忙しくなったことが重なり、いや、それを言い訳にして、生まれ持っての性格のすれ違いという本質的原因のせいで別れたのだった。

壮絶な別れ話を経たせいで、彼女とはほとんど音信不通になっているし、今後も会うことはないだろう。そうして、僕の手元には“ジョルディ”のメニューに関する知見だけが残ったのだった。

だから、僕にとって恵比寿は、どうしても彼女との苦い思い出があちこちに貼り付いた街であり、その事実が僕をこの街から遠ざけていたのかもしれない。

「まぁ、そのあとに始まった直近の交際も、婚約破棄だなんていう結末を迎えることになったんですから。僕には根本的に、恋愛とか結婚とかが向いてないのかもしれない」「恵比寿のタコ焼き」と仲間内で呼んでいる小さな球形の食べ物を眺めながら、僕は自嘲的に笑う。

“タコ焼き”の正体はクリームコロッケで、中にはイベリコ生ハムを刻んだものがふんだんに混ぜ込まれている。それをアリオリソースにつけて食べる。

どう考えても美味しいに決まっているその組み合わせを、きちんと美味しく仕上げる堅実さがこのお店にはある。

「へぇ、美味しい。上品にワインっていうよりもビールが欲しくなるね」と北野先輩は感嘆の声を上げ、実際にビールを大至急で注文していたから、僕もそれに相乗りすることにした。

若者たちの街の片隅にひっそりと存在する、大人の秘密基地。このお店を評するにはそんな表現がピッタリだろうし、そこで僕たちは「大人は上品にワインでしょ」みたいな馬鹿げた固定概念から逃れ、カヴァで乾杯してから一度軽めの白ワインを挟み、やっぱりビールに戻るという愉快な迷走を許される。

「恵比寿、よく行きますか?」という僕の質問に、北野先輩は「当たり前じゃない!テレビマンといったら恵比寿よ」と勢いよく回答した。

先輩によると、深夜にやってくる客のワガママに慣れているお店も多いし、スナックなんかも多いから、東カレ的に言えば「大人は、最後に恵比寿に辿り着く」ということらしい。

どちらかというと「漂流」のニュアンスのほうが近いように思えたけど。とにかく、恵比寿には僕のまだ知らない大人の遊び場がいくつもあるようだ。

街というのは何歳になってもその全容を理解することができないものだし、遊び上手の人にとっては、若者向けとされている街とうまく付き合うことのほうがむしろ粋なのかもしれない。

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