港区おじさんと、22時の麻婆豆腐。麻布競馬場による4号連続書き下ろしエッセイ vol.02

「旨いですね」と、自然と声が出る。まさに港区、青山らしい麻婆豆腐


村上先輩は、お土産だと言って「白えびビーバー」をくれた。北陸名物の揚げあられ。

昨日のお昼に金沢で地方創生関係のイベントに登壇して、夜はそのまま茶屋街で遊んで、今日の昼過ぎの中途半端な時間に新幹線に乗って戻ってきたものの、一緒に帰ってきた人たちに捕まってまずは麻布十番の鮨屋、次に骨董通り沿いのナチュラルワインバーを経てどうにか解放されて、“結”で残り少ない週末の時間を過ごすことに決めたようだった。

「お前、なんで中目黒なんかにいたんだ。まさか引っ越すつもりじゃないだろうな?」と、村上先輩が見透かしたようなことを言ってくるから、僕はドキリとしてしまった。嘘をついても仕方ないだろう。

「……そうなんです、人生のうちに港区以外で過ごす時期があってもいいかなと思って」と不信心な心の揺らぎを告白しながら、今日内覧してきた中目黒のマンションの14階の部屋をスマホで見せた。

「へぇ、悪くないね」と村上先輩はその物件を儀礼的に褒めてくれた後、「でも、この店の存在を見逃してるうちは、東カレで港区代表みたいな顔して連載をやる立場にないんじゃない?港区を出るための卒検は、まだまだクリアできないよ」といたずらっぽく笑いながら言った。反論の余地は一切なかった。

ちょうどその時、僕が来る前に村上先輩が頼んでいたらしい麻婆豆腐を、ピノ・グリのオレンジワイン「AKATCHA」とともに真理子さんが持ってきてくれた(見たことのないワインばかり置いていると思っていたら、どうも西麻布の『ゴブリン』経由で仕入れているらしいから納得だ)。


悔しさを跳ね返すように、熱さに構わずレンゲですくって口に放り込むと、「旨いですね」と、自然と声が出る。村上先輩は「そうだろう」といやに誇らしげだった。

“結”の麻婆豆腐には派手な個性がない。辛過ぎず、しょっぱ過ぎず、重た過ぎない。ただ、何か足りない、物足りないということは決してない。

口の中で暴れ回り、弾んでいた会話を止めるような下品なことをしない。代わりに、口を衝き動かして「旨いですね」と言わせ、むしろ会話を弾ませる魔力がある。

上品でいて不敵。まさしく港区の、それも青山らしい麻婆豆腐じゃないか。


その日、村上先輩は珍しく酔っていた。どうせ新幹線でも「山崎」を舐めたりしていたのだろう。

「最近な、ずっと同じ場所でぐるぐる回ってる気がするんだ。物理的な話じゃない。まぁ、普段の行動を考えると港区内をぐるぐる回ってるから、物理的な話だったとしても間違いじゃないんだけど……」

まったく順調に見える村上先輩の人生にも、僕が軽々しく推察すべきでない悩みが横たわっているのかもしれない。

美しく整えられた場所にある苦しみほど、外からは見つけづらいものだと、僕も30歳を超えてようやく理解できるようになった。

「でもな」と、村上先輩はワインをひと口飲んで続ける。

「こうやって、夜中に旨い麻婆豆腐が食えるお店を知ってて、そこで友達と旨い旨いって食ってるうちに、まぁ明日くらいは頑張って生きるか、って思えるんだよな。人生ってのは、案外そういう単純な連続のことをいうのかもしれない」

突如として哲学者みたいなことを言い出した村上先輩の話を聞いて、僕たちの隣のテーブルでワインを飲んでいた真理子さんは大爆笑した。

「いやいや、本気でそう思ってるんですって!」と村上先輩は今さら恥ずかしそうに反論していたが、僕もつられて大爆笑してしまった。


気付けば、店には僕たちの他にお客さんは誰もいなくなっていた。時刻も23時を優に回っていた。村上先輩と僕は会計を済ませ、真理子さんに「遅くまですみませんでした!」と元気に謝ってから解散した。

きっと村上先輩は、それでもずっと、これからもずっと、港区をぐるぐる回り続けるだろうという予感があった。

今日のしんみりとした話のことなんて、次会った時には本当に忘れているか、あるいは忘れているフリをすることだろう。そういう人だ。柔らかい笑顔の奥に、強い芯のある人だ。

僕はこうやって、人や街の思わぬ一面が捲れて見える瞬間が好きだ。

僕はまだまだ青山のことを知らない。それは僕にとって、また青山に行くための十分過ぎる理由になる。



次回の書き下ろしエッセイの舞台は、「恵比寿」!10/20発売の東京カレンダー本誌に掲載予定です。

■プロフィール
麻布競馬場 1991年生まれ。著書『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社)が好評発売中。
X(旧Twitter)ID:@63cities

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