港区おじさんと、22時の麻婆豆腐。麻布競馬場による4号連続書き下ろしエッセイ vol.02

「来づらいのがいい」青山という街を体現したような中華料理店へ


それで、指示されるがままに向かったのが『乃木坂 結』だった。青山霊園の向かい、国立新美術館を越えて少し行ったところにある。

21時半の少し手前、お店の入口で「すみません、村上の連れです」と名乗った僕を迎えてくれたメガネの女性の顔には見覚えがあったので驚いた。『広尾はしづめ』の真理子さんだ。

僕が社会人になったばかりの頃にハマって何度か再訪し、両親との食事会でも利用させてもらった同店でサービスをやっていたのがこの真理子さんだった。

聞くと、料理長と一緒にその後独立し、2021年から“結”を始めたのだそうだ。

「なんだ、真理子さんのこと知ってたのか」。村上先輩は、後輩の悪くないセンスを喜んでくれているようだった。

ただ、「そうだとしたらなおさら、ここの店のオープンを追えてなかったのはお前の大失点だな」と言われると立つ瀬がなかった。


村上先輩はこのお店がオープンしたばかりの頃からの常連のようで、真理子さんは「いっつもこんな遅い時間ばっかりに来て!閉店時間の23時になったらたたき出しますからね!」と楽しそうに説教しながら、村上先輩の好きな甲州ワイン「キスヴィン」をふたつ並んだワイングラスに注いでくれた。

ワインに合わせて、おそらくは前菜盛り合わせの構成員だったであろう小皿料理三種ほどと、それから名物の「ピータン豆腐」も出してくれた(ただのピータン豆腐ではないから、ぜひお店で試してほしい)。


「しかしどうして、青山のあたりってこうも来づらいんですかね」と僕は開口一番、立地に関する軽口をたたいた。

中目黒からここに来るには、この時間になると混雑しがちな八幡通りから六本木通りへとタクシーで抜けるか、それか日比谷線で六本木駅まで行ってから10分ほど歩くのが推奨ルートだとグーグルマップは言っていた。

「来づらいのがいいんだろうが、青山は」と村上先輩は言い返してくる。

確かにそうかもしれない。六本木にも、渋谷にも、丸の内にもすぐに出られる立地。北側には赤坂御所の濃密な緑を抱え、あちこちの細い路地の奥には、他ならぬこの“結”のような、知る人ぞ知る小さな宝石みたいなお店がひしめいている。

青山は、青山をよく知る人たちのための街だ。よく働き、よく遊び、それでタクシーで家に帰る前に「すみません、やっぱりそこを左折で」とか言って、自分の家まで数分歩けば帰れる気心の知れたお店に寄って、騒々しい一日の余韻にひとり静かに浸る。

きっとその時間帯のそのお店には、自分と同じような人たち–港区あたりでよく働き、よく遊び、そして文字どおりの「ホーム」である青山に帰ってきた人たちが集まっている。

マンションの隣人の顔を一応知ってはいるが、エレベーターでばったり乗り合わせても図々しく話しかけることはなく、小さく微笑んで会釈をひとつだけするような、心地よい温かさのある無関心。

それはきっと、青山という街の凛とした品格を体現したような近寄り難さと、しかしひとたび内に入れば、遅い時間に訪ねてきた迷惑な客にもよく冷えた白ワインを供してくれる真理子さんのような優しさの、不思議な掛け合わせが生むものなのだろう。

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