「東麻布は麻布十番じゃない」と言う女。麻布競馬場による4号連続書き下ろしエッセイ!

“Twitter”上にツリー形式の東京物語を連投し、現代人の抱える葛藤を巧みに描く、麻布競馬場。

“タワマン文学”という新しいトレンドを生み出した彼による、東京カレンダーのエリア特集と連動した短編小説シリーズがスタート!

第一弾の舞台は、自身のペンネームの由来にもなった「麻布十番」だ。



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vol.01 「東麻布は麻布十番じゃない」と言う女。


「嫌いなタイプですか?東麻布に住んでるくせに“麻布十番在住”って言う人」

初対面から5分でそんな質問をした僕も僕だが、そこで死人が出るレベルの切れ味鋭いチクチク言葉をなんのためらいもなく言い放った彼女も彼女だろう。

ちょうどカウンターの向こうから大将がビールを出してくれたから、僕たちはまず、お互いのちょっとした性格の悪さに乾杯した。


去年の9月に執筆業を始める前からずっと、知らない人と会うのが好きだった。手段は主にマッチングアプリで、なぜかというとそこでの出会いには「文脈」がすっぽり抜け落ちているからだ。

プロフィール文を見れば住んでいる場所や卒業大学くらいは書いているが、その他に僕は相手のことを何も知らない。どんな家に生まれて、どんな環境に育ってきて、そうして今どんな人たちとどんなふうに暮らしているか、何ひとつ知らない。唯一の手掛かりであるプロフィール文が本当かも分からない。

そこで僕はまるで、自ら書いた筋書きを素知らぬ顔で演じ合い、その裏で腹の底を読み合うという、ある種のゲームのような背徳的刺激を存分に浴びることができる。


その日は「麻布十番によくいます」とアプリのプロフィールに堂々と明記した29歳の女性と飲みに行くことになっていた。僕がお店を押さえた場所は、もちろん麻布十番。

彼女の出身大学は偶然にも僕と同じ慶應で、メッセージを交換しながら話を聞いてみれば、僕が可愛がっていたサークルの後輩とゼミの同期だったらしく、それが分かった途端に突如として打ち解けた。

現金しか使えないお店に備えてカードウォレットに無理やり詰めている何枚かの一万円札に載っている、福沢諭吉の曖昧な像を脳裏に浮かべ、僕は彼に対して無言で深く感謝した。

「東麻布にだっていい物件は多いし、かつていろんな文化人が住んでたような歴史ある住宅街でもあるんだから、素直に“東麻布に住んでます”って言えばいいじゃないですか。それなのに“麻布十番在住”だなんて言って、まるで東麻布を恥じてるようなところも、麻布十番を格上だと捉えた上でその権威にぶら下がろうとするところも、全部嫌い」

冷たいビールをあっという間にほとんど吸い込んでしまった彼女は、冒頭の発言の趣旨をそんなふうに丁寧に説明してくれた。

慶應卒で汐留の代理店勤務。「麻布十番によくいます」は当地でよく飲んでいるだけではなく、当地に住んでいるということでもあるらしい。

内田坂の方だと言うから、彼女の厳密な定義によればそこはむしろ元麻布と呼ぶべきエリアである気もするが、「元麻布は高級住宅街だから、むしろ慎ましい自称でしょう?」みたいな謙遜がその背後にはあるのかもしれない。

とにかく彼女は麻布十番で寝起きし、歯を磨いたら出社日は大江戸線に乗って会社に行き、効率よく仕事を終わらせて退勤したら大江戸線に乗って麻布十番に戻り、麻布十番に友達を呼びつけてお酒を飲む日々を送っているのだろう。

つまり彼女は、そこらの自称「麻布十番在住」みたいな連中よりも、多くの時間とお金をこの街に捧げていることに誇りを持っていて、それこそが恥じらいを伴うことなく表明される彼女の“麻布十番愛”の根源なのかもしれない。

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