
未来の渋谷はどう変わる?広告代理店出身の渋谷区長が語った、今後の街づくり
1972年生まれの区長の青春時代は、いわゆる「チーマー世代」に該当する。
まさに渋谷はその中心であったが、そんな血気盛んな街の活気も目の当たりにしていた。
「確かに、いわゆる“○○狩り”みたいなこともありました。ただ、怖いのはよそから来た人の方が多かった印象です。僕は、絡まれないようにひっそり通っていました(笑)」
そんな中、地元ゆえに気づかなかった街の魅力に次第に気づくように。それは、他者の目を通じて自分の中に芽生えていったと話す。
「雑誌やテレビ、ドラマの撮影が、街のあちこちで日常的に行われていましたし、お洒落な人、格好いい人たちもたくさん歩いていた。それが地元の僕らの“普通”でした。
でも、徐々に自分の世界が広がり、他の地域の人たちと触れ始め、“地元が原宿”という話をするたびに“羨ましい”“いいな”“遊びに行きたい”と言われるようになるんです。
そうか、いい街なのかとうれしくなると同時に、客観的に見られるようになりました。実際にいい場所は山ほどありますから。そんな街に住める自分はラッキーだなとも思いました」
他者との関係の中で我が街の見方が変わる。そんな稀有な体験が今にも繋がる。
区長が公の場でたびたび口にする「シティプライド」という言葉がある。
自分の街に誇りを持つことを意味するが、まさに、誇りの持てるほどのいい街をつくるために尽力している彼の原点は、こうした自身の体験にあるともいえそうだ。
変わりゆく街の、その原点は歴史にあり
折しも昨年、渋谷区はちょうど区制施行90周年を迎えた。
渋谷町と千駄ヶ谷町、代々幡町の3つが合併して生まれた渋谷区の歴史についても語ってくれた。
「渋谷はかつて田舎でした。道玄坂の名前が、室町時代の追い剥ぎ、大和田道玄に由来する説もあるほどです。箱根ではなく渋谷で追い剥ぎ?と、ショックを受けました(笑)。
今でこそ道玄坂は繁華街ですが、電灯が入り、商業地として栄えたのは明治の末からだったそうです。それまでは辺り一帯が暗く、治安も良いとは決して言えなかったでしょう。
今はなき、お好み焼き屋『こけし』の女将でエッセイストの故・藤田佳世さんの著書『大正・渋谷道玄坂』を読むと、何もないところから夜店が出始め、街が賑わいを見せていく様子がよく分かります」
区長が大好きだという「代々木公園」は、かつては「ワシントンハイツ」という米軍の施設だった歴史を持つ。
アメリカの所有地だったこの一帯は、1964年に開催された「東京オリンピック」の前に返還され、選手村や「代々木体育館」となったほか、大会終了後にはNHKや「渋谷区役所」、「渋谷公会堂」へと姿を変えた。