弘道は視線を落とし、悠香の膝の上で安心して眠っているレノンを見つめた。
― いつからこんなに関係がギクシャクしてしまったのだろう…。
レノンを飼い始めたのは、もう10年以上も前になる。お互いにレノンを溺愛し、それこそ愛猫の一挙一動に反応しては微笑み合っていた。
悠香とは大学時代からの付き合いだ。
大学卒業後しばらくして、1LDKのマンションを借りて同棲をスタート。家具選びでインテリアショップを巡っている途中、偶然入ったペットショップで淡いグレーの毛並みのいいスコティッシュフォールドにひと目惚れして、飼い始めたのだった。
レノンへの愛情が、2人を結婚へと導いたとも言えるかもしれない。
同棲から1年後に、弘道は悠香にプロポーズをした。場所は、ザ・リッツ・カールトン東京の45階にある『ザ・ロビーラウンジ』。
「俺についてきてくれ。絶対に幸せにするから」
歯の浮くようなセリフも、ラグジュアリーな空間にはよく馴染んでいた。「ありがとう」と涙をこらえながら答える悠香を見て、一生かけて守っていこう、と心に誓った。
結婚から2年後、悠香に500万円を借りて出資金にあて、ベンチャー企業を立ち上げた。悠香は起業には乗り気ではなかったようだが、会社は順調に売り上げを伸ばし成長していった。
そして、弘道の憧れであった海の見えるタワーマンション高層階に引っ越しをする。
会社が業績を上げていくにつれ忙しさも増し、悠香を部屋でひとりにさせる時間が増えていった。「早く子どもが欲しい」という悠香の希望に向き合うことさえしなくなった。
そんなある日、会社で部下に声をかけられた。
「これって、社長の奥さんじゃないですか?」
スマートフォンを差し出され、画面を覗く。
SNSの1ページで、小動物を模したぬいぐるみを何匹か集め、中央に焚火を置いてはしゃいでいるように見せたコミカルな写真だった。
「ほら、ここ。奥さんですよね?」
部下が画面をスクロールさせ、指でさし示した先に、確かに『悠香』の名前がある。“羊毛フェルト作家”という肩書を名乗っているようだった。
「これ…全部手作りってことか?」
「ニードルフェルトっていうらしいですよ。ずいぶん人気があるみたいですね」
確かに悠香は昔から細かい作業が好きだった。大学で被服学を学んだこともあってか、友人の結婚式がある度に、嬉しそうにコサージュ作りに励んでいる姿をよく見かけた。
さらに画面をスクロールすると、次々と作品が現れる。どれも、マスコットの動物たちが集まり、楽しそうにしているワンシーンが切り取られていた。しかも、「いいね」が2,000件以上も付いているものもあった。
― 悠香のやつ、いつの間にこんなに…。
マスコットたちの楽しげな様子が、海の見える部屋で、ひとり寂しく製作に取り組んでいる悠香の願望を映し出しているように感じた。
― 今日は早く帰って悠香とゆっくり過ごそう。
弘道がそう思って家に帰った夜だった。悠香に別居を切り出されたのは…。
この記事へのコメント
事前に様々調べたみたいだし。
青木先生の見解は勉強になるし、来週も楽しみ。