—この男は、誰だ?—
明晰な頭脳と甘いマスク、輝かしい経歴を武器に、一躍スターダムにのし上がった男がいる。
誰もが彼を羨み、尊敬の念さえ抱いていた。
だがもしも、彼の全てが「嘘」だったとしたら?
過去を捨て、名前を変え、経歴を変え、顔を変えて別人になっていたら…?
彼へ羨望の眼差しを向けていた者は、きっとこう思うだろう。
「この男は、本当は誰だ?」と。
だが実は、当の本人こそが一番思っていたのではないだろうか。
鏡に映る、自分であるはずの顔を見て、「この男は、誰だ?」と。
その絶望と孤独を、あなたは想像できるだろうか?
『人間は快楽主義の生き物だ。―度味わった快楽を手放すことはとても難しい:フロイト』
『消したよね?』
パシャ、パシャ、というシャッター音の合間、不意に昨夜携帯にかかってきた正体不明の声が蘇った。
『消したよね?』
あまりにも唐突なその言葉に、え?と反応した僕に『消したんでしょ?』と、その声がもう一度言った。
性別もわからない機械音のような声が繰り返す『消した?』という言葉に、僕の動悸は速まり、喉元に熱がこみ上げてきた。
―…誰だ?…どっちの話の…何を知ってる?
返すべき言葉が分からず立ち尽くす。無意識にゴクリと喉を鳴らしてしまった僕の姿がまるで見えているかのように、その声は、フフフ、と笑って…プツリと電話は切れた。
―見覚えのない番号からの電話なんて…出るもんじゃないな。
思わず出たため息に、数度のシャッター音とフラッシュが重なった。
「今の憂いのある表情、最高にセクシーです、レオさん最高!知性がにじみ出てますよー」
テンションが高すぎるカメラマンの声に自分の名を呼ばれ、僕は今に引き戻された。
そうだ、集中しなければ。
今僕は、ホテルのスイートルームにあるテラスで、アッパー層向けの男性誌の撮影中だ。
見事な夜景を背に立つ僕に、甘い香りが寄り添う。その香りを放つ女性に視線を落とすと、猫のような、薄い茶色の瞳が微笑みかけてきた。
彼女は日本人離れしたスタイルを武器に、海外の映画祭で大きな賞を受賞したばかりの若手女優・秋川光希(あきかわ・みつき)。僕は今日、彼女の対談相手として呼ばれたのだが、それは彼女のご指名だという。
テーマは『今一番会いたい男』。
“イケメンジャーナリスト”や“イケメン経営者”と呼ばれ、ラジオやテレビにもいくつかのレギュラー番組を持つ僕は、どうやら『ラグジュアリーファッション誌』と言われるこの雑誌のターゲット層にぴったりらしい。
「アンダー40の結婚したい独身男性」とかいう馬鹿げたランキングで俳優やスポーツ選手を抑えて、僕が1位を取ったなどと言われても、いまいち信じられず笑ってしまうのだが。
「おお、いいですねぇ、そのまましばらく見つめ合って。光希ちゃん、レオさんにもっとぐーっと顔を近づけて。そう、そう! バレたら全てを失う、秘密のラブアフェアー…刹那的な雰囲気で!」
―バレたら全てを失う、か。
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