昼間の出来事
「奈央さん、奈央さん」
午前中のミーティングを終え会議室を出ると、後ろから明るい声に呼び止められた。振り返るまでもなく、声の主はわかっている。健太郎だ。
彼は、今年の秋から奈央と同じクライアントを担当することになった後輩で、現在28歳だ。以前からなぜか妙に奈央に懐いている。
「疲れましたね、会議。朝からずっとだもんなぁー」
健太郎は社内でも将来を有望視されている一人で、実際、仕事となると頭も切れるしかなり優秀だ。
しかし奈央にはいつもこんな調子で、どこか甘えた素振りで近寄ってくる。そして、その目に好意が浮かんでいることに、奈央も気づいていないわけじゃない。
「なんか腹減りません?良かったら一緒にランチでも…」
「ごめん。悪いけど、行くところがあるの」
健太郎の誘いを、奈央は遮るように断った。
誘われて嫌なわけじゃない。むしろ、嬉しい。
…ただ、何かを期待してしまう自分が怖いのだ。近づいてしまったら、傷つくのは私。そう思うから、どうしても距離を取ろうとしてしまう。
思うよりキツイ口調になってしまったことを後悔しながら、彼の反応を伺うが、健太郎はあっさりしたものだ。
「そっか。じゃあまた誘います」
何を気にする風でもなく、思わずときめく甘い笑顔を残して彼は爽やかに去って行った。
キャリアと引き換えに、失ったもの
正直な話、奈央にはもう“恋愛”がよくわからなくなっていた。
例えば20代の頃の自分なら、先ほどのように健太郎に誘われて、断るようなことはしなかったと思う。好意があるのにわざと距離を取るなんてことも、絶対にしなかった。
しかし3年前、結婚前提で付き合っていた恋人をいわゆる“にゃんにゃんOL”に奪われてしまった時、自分の歩んできた道のりが女として正しかったのかどうか、完全に自信を失ってしまったのだ。
それでもどうにか前を向くために、奈央はひたすら仕事に打ち込んだ。誰に言われるでもなく専門書を読み漁っては業界研究に勤しんできた。
そのおかげで、クライアントからも社内においても奈央の評価はすこぶる高い。30代でのパートナー昇進だって叶わぬ夢ではない。
ここまでやってこれた自分を、誇りに思ってはいる。けれどもその一方で、自身の存在価値は仕事しかないのではないか…などと考えてしまうのだ。
それゆえ健太郎の好意をうっすら感じても「きっと彼女いるし」とか「そもそもこんな年上、興味ないって」とか「彼もどうせ“にゃんにゃんOL”が好きなんでしょ」などと卑屈になり、どうしても素直になれない。
−人には向き不向きがあるのよ。私に、恋愛は向いてない。
奈央は自分自身を諭すように心の中でそう呟くと、一つ大きく息を吐き、『ラ ブティック ドゥ ジョエル・ロブション 丸の内店』でパンでも買おうと、一人寂しくブリックスクエアへ向かった。
しかしたとえ恋愛に向かない女であっても、“恋に落ちる”瞬間には抗えない。
そしてその瞬間はいつも、思いがけないタイミングで訪れるものだ。そう、まるで奇跡のように。