美沙さんが貸してくれたのは、ビオレの『薬用デオドラントZ』の全身用スプレーだった。
出先の化粧室なので、音が漏れないようにと慎重に吹きかける。しかしこの全身用スプレーはガスじゃないせいか、噴射音がいつもより気にならなかった。洋服への白残りもしていない。
―よし。田辺さんに話しかけてみよう。
美沙さんのおかげで落ち着きを取り戻しスタジオに向かうと、そこには見たくない光景が広がっていた。
「えっ!?高橋さんって、京都出身なんですか?僕、大学は京都だったんですよ」
それは美沙さんに楽しそうに話しかけている、田辺さんの姿だった。
―ふぅん...
美沙さんは、現在33歳。3年前に結婚しているが、清潔感のある健康的な美人で、彼女のファンは社内外に多く存在する。
「玲子、大丈夫だった?」
美沙さんが私に近づいて話しかけてくれたとき、石鹸のいい香りがふわりとした。
しかし私は隣にいる田辺さんを意識してしまい、その問いかけにぎこちなく微笑み返すことしかできなかった。
◆
私は、去年の11月にちょうど30歳になった。
しかし誕生日直前、長年付き合っていた彼氏に「他に好きな人ができた」とふられて以来、新しい恋がまだできていないのだ。
彼とは結婚を考えていたから、ふられたときはかなり落ち込んだ。ご飯も喉を通らず、外に出る気力もないまま数か月を過ごしたが、散々落ち込んだ後、このままではいけないと、あることを決心したのだ。
1年後、31歳の誕生日までには、絶対結婚する、と。
それ以来、食事会や飲み会には積極的に参加し、いわゆる“婚活”をスタートさせた。そうした出会いの場に参加すれば、その内の1人か2人の男性には食事に誘われる。しかし私はイマイチ誰にも踏み込めずにいた。
その原因の一つが、男性との接近戦に自信がない、ということだった。
私は汗っかきで汗のニオイが気になるから、ノースリーブを着ることや、気になる男性に近づくことに抵抗がある。一度食事会に遅刻しそうで、ダッシュで駆け込んだら、隣にいた女友だちにも指摘されたこともある。
今日だって、自分のタイプである田辺さんという素敵な出会いがあったのに(仕事だけれど)、かわいくない姿を見られてしまった。
本当は私だって、美沙さんみたいに綺麗な色の服を着て、田辺さんと近くで話したいのに…。
「どうしたの?ぼーっとして。」
そう言って、美沙さんが私の背中に手を置いた。
―あ...
撮影前に汗をかいていたので、普段なら背中はベタベタなはず。しかし私の背中はさっき『薬用デオドラントZ』の全身用スプレーを使ったおかげか、サラサラしていた。
「なんかバタバタしてたから化粧とか汗のニオイとか、大丈夫かなって気になっちゃって...さっきはありがとうございました」
「ううん。玲子って可愛いのにいつも自信なさげで、つい気になっちゃうのよ」
そう言う玲子さんの顔は涼しげで余裕があって、私もこんな人になりたいなと強く思った。
◆
「じゃあ、高橋さん。お疲れさまです」
撮影が終わると、田辺さんは爽やかな顔で美沙さんに挨拶し、私にはぺこりとお辞儀をしただけで、帰ってしまった。
―結局、一言も話せないまま、終わっちゃった…!
私はこのままではいけないと、ますます危機感を募らせた。