橋本は、今年で36歳になる。
世田谷育ちのお坊ちゃまで、上智大出身。妻は大学のゼミの同期だと言っていた。一度写真を見たことがあるが、ファッション誌からそのまま抜けだしたかのような洗練された女性。外資系の化粧品会社でPRをしているらしい。2人の間には5歳になる男の子がいる。
橋本は仕事ができる有能な男で、順調に出世街道に乗っているといっていいだろう。長身、細身のスタイルで見た目にも気を遣い、性格も明るく朗らかだ。
しかしこれほど優秀な男のただ一つの欠点は、「イケダン」アピールをし過ぎることだった。毎週定例のミーティング以外にも、事あるごとに妻と子供の話をしたがる。
ユウはそれをことさら否定するつもりはないが、橋本を見ていると、男性たちもずいぶん変わったなと感じる。「家庭を大切にしている」というのは、今や既婚男性が積極的にアピールするポイントとなっているのだ。
そんなことを考えていたら、ミーティングはいつの間にか終わりを迎えていた。
「じゃあ、今週も頑張ろう」
全く嫌味のない晴れやかな笑顔で橋本が言い、皆席を立った。
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ユウだって初めは、“イケダン”の橋本に嫌な印象を抱いていた訳ではない。一緒に行ったランチで起こった、あるできごとがきっかけで彼に疑問を抱くようになったのだ。
ユウは昨年、営業からこのマーケティングチームへ異動した。異動からほどなくして、上司の橋本はユウをランチに誘ってきた。うちの部署は子持ちの社員が多くて飲み会ができないから、という理由だった。
会社近くのイタリアンに行き、1時間ほど喋っただろうか。
ユウは、ユーモアと機知に富んだ橋本との会話に大いに満足した。初めは社内の共通の知り合いの話題から始まり、仕事に対する思いやユウへ期待することなど、彼は熱っぽく語った。
「こんな素敵な上司のもとだったら、大丈夫…」
異動したてで不安な気持ちもあったが、優秀で熱心な上司のもとで働けることに安堵した。
しかしランチが終わりいざ会計の段になったとき、橋本は動く気配を見せなかった。ユウは不思議に思ったが、自ら伝票を持ちレジに向かった。
橋本が一向に財布を出す気配もないので、ユウは店員に「別々で」と言い、パスタランチ代1,000円を払い外に出た。
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