どでかいサングラスを外しながら顔をしかめたのは、西麻布の女帝・光江。今日はバニラ色のシルクドレスに、フォックスファーのジレを纏っている。
「げ、光江さん」と顔をしかめたルビーをギロリと睨み、光江は紙袋を突き出した。
「ルビー、アンタはおやつの時間だよ。個室でこれを食べときな」
つまりともみと2人きりで話をしたいから、席をはずせと言われているのだが、渡された手土産が大好物の高級チラシ寿司だったことで、ルビーは嬉々として、個室へと飛んで行った。
「ジントニック」
「はい」
ミチのジントニックを世界一だと愛する光江のオーダーを受ける度に、ともみは未だに緊張してしまう。
それでもここ最近は、ミチから教わったベースを守りつつ、そのレシピを忠実に再現するだけではなくなっていた。ライムを立たせ、ソーダを少し混ぜて“ジンソニック”寄りのキレを出すのがこだわりだ。自分の味で勝負する覚悟を込めながら、ともみは静かにグラスを仕上げていく。
ひと口、口にした光江が、「まあ、ギリギリ合格点ってとこだね」と言ってくれてホッとする。
ルビーを個室に追いやったのに、光江は話を切り出すことはなく、ただしばらくその酒を味わい、味の配分などをともみに尋ねるだけだった。
― 私に話せ、ってことだろうな。
光江がともみと2人になろうとするときは、大抵、ともみの中に燻る何かを吐き出させるためだと分かっていた。ともみは、ずっと胸の奥底に溜まり続けていた澱のような思いを、おずおずと口にした。
「光江さん」
「なんだい」
「私は、今、この店の店長として何点くらいでしょうか?」
光江の眼光が、ギロリ、と舐めるようにともみを射抜く。
「アンタまた、バカなこと考えてるんじゃないだろうね」
「…バカな事、ですか?」
「前に言ってたろ。この店の店長としてふさわしいのは、天性のカリスマ性を持つルビーじゃないかって。私はルビーを支えるサポートに回った方が、店のためにはいいのでは?とかさ」
「…はい……言いました」
その時、こっぴどく叱られたことを思い出し、ともみは思わず肩をすぼめる。
「他人のカリスマ性を見極められるくらいアンタは偉くなったのかい」とか「ふさわしいとか、ふさわしくないとか、アンタが決めることじゃない。自惚れんじゃないよ」とか、叱られっぱなしで、大層へこみ、それ以来その話をしたことは無かった。
「今はどう思ってんだい。点数が気になるってことは、どうせまたクソ真面目に、この先私は、店長としてどうあるべきか、とか考え始めてるってことだろ」
「……」
「アンタのクソ真面目は、方向音痴なんだよ。そっちに進んでも絶対たどり着かないだろ、迷子になるに決まってるじゃないか、って方向にばかり進んでいく」
「真面目の……方向音痴……」
きちんと意味が咀嚼できていないのに、ともみはぐうの音も出なくなった。つまり、考える方向が、そもそも方向違い、ということだろうか。
「…すみません…」
なんとなく謝ってしまい、「理由も分かっていないのに、簡単に謝るんじゃないよ」とまた叱られる。
「いいかい。ルビーの方が適任だと思えば、はなからルビーに店長をやらせてる。確かにあの子の方が物怖じはしないし、アンタが言う…カリスマ性っていうの?まあ人を惹きつけるパワーはあるだろうね。人間の華ってやつで言えば、あの子の方が圧倒的に華やかだろ」
自分には華がないと言われているようで、ともみが複雑な表情をしたのだろう。そんな胸中を見透かすように、光江はフッと意地悪そうに口を歪めた。
「それでもアタシは、アンタを選んだ。アンタは華がなくて泥臭いのがいいんだよ。方向音痴で目的地に着くまでに、誰よりも時間がかかるけど、それでもなんとかたどり着こうとするだろ。特に最近のアンタは、その方向音痴に磨きがかかってきてる。それがいいんだよ」
「…方向音痴が磨かれる、とか…あります…?」
ちっとも嬉しくない評価に、思わず間抜けな質問を返したともみを、光江が声を上げて笑った。
「アンタ自身はこの街に来るまで自分を要領の良い器用なタイプだと思ってきたんだろうけど、アンタは元来、不器用だし要領も悪い。人生の方向音痴さ。それに最近やっと気づきだしたんじゃないのかい?」
「…そう、ですか、ね」
「そうだよ。最近流行りの、コスパやらタイパやらっていう効率重視の生き方ができない。だからこそ無駄な傷も負う。
でもね――そういうアンタみたいな人間こそがこの店を必要とする女たちにとっては救いになる。安っすい啓蒙本のキャッチコピーみたいに、効率ばっか計算してるやつに、人生の相談とかしたくないだろ」
「…」
「そもそも、アンタが名付けたんだろうが、『TOUGH COOKIES』って店名をさ」
確かに――光江から店の名前の候補を聞かれたとき、散々調べたけれど、この英語を知ったとき、ピンときたのだ。
もろそうに見えて、折れないクッキー。邪険に扱われても、何度も踏みつけられても、立ち上がろうとするタフな女性たち――その生きざまを表わすこの言葉を、店名にしたいと思った。
「正直、ダサいと思ったんだよ」
「…え?」
「だって演歌みたいじゃないか。浪花節だよ、TOUGH COOKIES、なんてさ。全然シャレてないじゃないか」
光江のまさかの本音に、ともみはあんぐりと口を開ける。
「ダサいと思ったのに…どうして…?」
光江が楽しそうに笑った。
「余計なお世話ってくらいの図太い人情とか――そういう浪花節がこの店には必要だと思ったからさ。暑っ苦しいお節介ってやつだね」
「…お節介…」
「とにかく、このダサい店名を含めて――アンタらしい、アンタの店だってことだ」
そういうと、ちょいちょい、と指で手招きされ、ともみはカウンター越しに体を寄せた。すると光江が自分のネックレスを外し、ともみの首元へと着け始めた。
「…えっ!?光江さん!?」
「アンタにやるよ」
「え?え!?ウソ、でもこれって……」
直径3,4センチはありそうな大振りのサファイアと深紅のルビーがこれでもかと散りばめられている。その金銭的な価値もとんでもないものだろうが、ともみはこのネックレスが持つ歴史の重さを知っていた。
「これ、光江さんが西麻布で最初に店を開いたとき、覚悟を決めるためにローンで買った、っていう、一番大切なものじゃ…」
「だから、今、アンタに渡すんだよ。アンタもこれで、腹くくりな」
胸元に落ちた圧倒的な重みに、ともみは息をのんで立ち尽くす。光江はもう一度笑うと、まるで孔雀がその鮮やかな羽を畳んだかのように、すうっと立ち上がった。
「そろそろ最初の客の時間だろ」
空になったグラスをともみの方へと押し戻し、「ご馳走さん」と光江は悠然と背を向けた。歩き出したその足が、ふと止まる。
「あ、そうだ」
振り返った光江の眼差しは、かつてないほど柔らかかった。
「アンタが今何点かってやつ」
「…は、はい」
「10点」
「……それって、100点満点で、ですよね」
「まあね、でも、この店を始めた時はマイナス100点くらいだったんだから、とんでもない進歩だろ」
ド迫力のウィンクを残して光江は去って行った。
ともみは扉が閉まってしばらくしても、その方向を見つめたまま動くことができなかった。すると光江の気配が消えたことを察知したルビーが、満腹、満腹、と幸せそうに出てきて、ぎょっと、驚く。
「うわ、何その、超ぎらぎらネックレス!」
光江にもらったことを伝えると、ルビーが手を叩いて爆笑した。
「そんな、ザ!成金、って感じのネックレス、もらっても困るよねぇ~。ともみさん全然似合わなすぎてウケるんだけどぉ」
確かに――このネックレスに見合う自分になるまでは、途方もない時間がかかりそうだ。
「あっ、ヤバい。あと10分でお客様がいらっしゃる時間じゃん」
ルビーが声を上げた瞬間、インターフォンが鳴った。19時10分前。モニターを覗くと「少し早くついちゃったんですけど大丈夫でしょうか…」とこわばった女性の顔と、遠慮がちな声が響いた。
「もちろんです。3階までお上がりください」
さっきとはまるで別人の大人びた声で対応したルビーが、お客様を迎えるために、扉の向こうのエレベーターホールへと向かった。ともみは手早く光江のグラスを洗い場へと下げ、ネックレスを大切に外して、引き出しにそっと仕舞った。
今夜もまた、疲れ果て、誰にも言えない秘密を抱え、孤独の中で溺れそうになりながら――必死に救いを求めてこの『TOUGH COOKIES』の扉を叩く女性がいる。
― 救えるなんておこがましいことは、思わない。
ただここでいつでも待っています、と言える店であれば、もうそれでいい。ともみはカウンターの中で背筋をすっと伸ばし、静かに息を整えた。
「いらっしゃいませ」
西麻布の裏路地にひっそりと佇む『TOUGH COOKIES』で――今夜もまた、愛おしくてタフな女性たちの、新しい夜が始まっていく。
Fin.
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この作家さんが描く、次の物語を楽しみに待っています!