港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。
女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが、その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。
タフクッキーとは、“噛めない程かたいクッキー”から、タフな女性という意味がある。
▶前回:「腐った天才が一番質が悪いの」過去の歌声をAIで凍らせようとする女に、生声で抗ったら
山中湖を吹き抜ける夜風が、ホテルの窓ガラスをかすかに震わせた。 部屋の照明は落とされ、ベッドサイドの小さなスタンドだけが、恐れから逃げるように眠り続けるYUMEを照らしている。
リハーサルの後、しばらく楽屋で休んでいたYUMEは、ホテルに戻ってもすぐにベッドにもぐり込み――ともみが1人になりたいかと聞いても、丸まった背中は無言のままピクリともしなかった。
ともみは、窓際のデスクでPCを広げてメールを確認したり、ツインベッドのもう一つに自分も横になったりしつつ…2時間ほどがたった頃、身じろぐ音がしてYUMEがゆっくりと起き上がった。
「水、飲む?」
YUMEは目を合わせぬまま静かに頷いた。ホテルに用意してもらっていたポットから常温のミネラルウォーターを注ぎ、渡す。
「…ごめんなさい」
「どうして?」
「歌えるか、歌えないか、だけじゃなくて…」
「…」
「本番の…ステージに立つことも…できないかも」
「もしそうでも、大丈夫よ」
YUMEは悔しいに決まってるけど…と前置きしてから、ともみはシリアスになり過ぎないように気をつけながら話す。
「元々、スケジュールにもラインナップされてない、シークレットのサプライズアーティストなわけだし。YUMEが出演しなかったとしても、お客さんたちを裏切ることにはならない。だから、出られなくてもいいの」
「…でも、それじゃ…」
縋るような涙目にともみは微笑みを返す。
「もしかして、記者会見の心配してる?そんなの、気にしなくていいよ」
真壁の筋書きでは――ステージで覆面アーティストのYUMEがその正体を明かしたあと、集まった国内外のメディアの前で大々的な記者会見を開き、『8年前に歌えなくなった歌姫が復活』『そして、真壁と共に世界進出を目指す』という発表をする、というものだった。
その筋書きを知ったともみとYUMEは、記者会見を利用する計画を立てた。集まった記者の前で、真壁の裏の顔と闇を晒す。違法整形を告発する場になるはずだったのだが。
生歌か音源かはともかく、ステージに立つことさえできず、ライブに出られなかったとしたら、当然その記者会見も開かれず、計画は頓挫する。それだけではなく、これまでのレッスンと準備期間を無駄にした、と真壁が激怒し、クビを切られる可能性は高いし、違約金を請求される可能性もある。それでも。
「計画なんて、どうなってもいいよ」
ともみがそう言うと、YUMEは膝を抱えて泣き始めた。子どものような泣き方は、あの頃のままだ。
― あの頃と…同じ間違いはしない。
かつてともみはYUMEを見捨てた。誰より自分を慕ってくれていると分かっていたのに。
「歌えなくても、本番に出られなかったとしても、さ。もう一度ステージに立つために今日まで頑張ってきた。それだけでも、本当にすごいことだから」
抱えた膝に顔を突っ伏したまま、YUMEは、力なく首を横に振った。
「……情けない」
「それは違う」
「違わないんです。私は何も――変われていなかった」
そんなことない、という言葉は安っぽい慰めになりそうで、ともみは言葉を飲み込む。
でも今日のリハーサルでの歌声は、本当に圧巻だった。総毛立ち、涙が止まらなくなり――だからYUMEの異変に気づくのが遅れてしまった。
『悪くない。……本番は生歌で行きましょう』
真壁の『悪くない』は最上級の誉め言葉だ。なのに、歌い終えたYUMEには喜びなど欠片もなく、何かに怯えるかのような瞳で震えていた。
ステージから遠く離れたコントロールブースから、「どういうことなのか説明して」とマイクで怒りを滲ませた真壁に、ともみは「一旦、YUMEを落ち着かせます」と楽屋に、そしてこのホテルの部屋に連れて帰ってきたのだ。
「…変われていない、って…どうして、そう思うの?」
ともみは、空になったYUMEのグラスに水をつぎ足しながら尋ねた。楽屋でも、この部屋に着いてからも、YUMEは夢の中へと逃げ込むように、何時間も眠り続けていた。喉が渇き切っていたのだろう。
「…ありがとうございます」
ベッドサイドのグラスを手にしたYUMEが、ようやくともみへと視線を向けた。
「真壁さんが悪くない、って言った瞬間、体が固まったんです」
「なぜ?」
「レッスンの間にだいぶ慣れて……もう大丈夫になったかと思ってたんですけど」
「…」
「……整形して…やっと…掴んだデビューで…あの頃の私は、あの人の“悪くない”が聞きたくて必死でした。彼女が“悪くない”と言うたびに、両親に内緒で顔を変えたことへの申し訳なさにも、顎が時々痛む恐怖にも、言い訳ができる気がして。
真壁さんが喜ぶ私になることが正しい。それが夢を叶えるということだと、信じていましたから」
「…わかるよ」
ともみは心から言った。かつての自分も同じだったからと苦みを覚えながら。YUMEは小さく笑い、グラスの縁を力なく撫ぜた。
「でも今日――真壁さんの、悪くない、を聞いた瞬間、吐きそうになったんです。体が震え出して止まらなくなって……真壁さんの顔を見るのも怖くて…」
「……」
「ほんと、情けないです。8年かけてあの人の影を克服したはずだったのに……歌えなくなったあの日のことを思い出してしまった。
喉を開いても、開いても、今までのように声が伸びてくれない。どうしてなの、って、怖くて、不安で、でも誰も助けてくれなくて…」
誰も助けてくれなくて。その言葉がともみの胸に刺さる。
「多分…あの後、もう一曲歌えと言われても、声が出せなかったはずです。だからこのままじゃ本番でも…どうなるか…」
ともみは、YUMEのベッドの脇に座り、その震える肩を引き寄せた。
「ごめんね」
「…どうして、ともみさんが謝るんですか」
「YUMEのこと――支えているつもりになってたけど、そんなのとんだ思い上がりだった」
「…ともみさん?」






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