TOUGH COOKIES Vol.81

「腐った天才が一番質が悪いの」過去の歌声をAIで凍らせようとする女に、生声で抗ったら

SUMI

「……は?」

珍しく驚きを露わにした真壁が、怪訝そうに眉をひそめた。

「というか、歌えないんでしょ?」
「今は、そうです」
「なら、今作った音源でいいじゃない」
「でも当日までに――整えられるかもしれません」

エンジニアが息を飲んだ気配の後で、YUMEの視線がゆっくりと、真壁からともみへ動いた。

「…歌えるようになる、かもしれなくて」

喜びというよりも、不安と緊張が滲んだ顔。踏ん張るように唇を噛みしめてからYUMEはもう一度真壁へと、姿勢を戻した。

「ギリギリで――直前で判断してもらえませんか?その時点で真壁さんが納得できるレベルに届いていなかったら、今の音源で構いませんから」

真壁が鼻で短く笑った。


「あと2週間しかないのに?」
「…分かってます」
「8年も、トラウマとやらで歌えなかったのに?」
「分かってます」

自分の視線から逃げないYUMEを、真壁は目を細めて睨む。

「分かってないわよ。野外のステージがどれほどタフか知っているでしょう。天候や気温、客のコンディション…どんなに最悪の環境になっても、ピッチをほんの少しもブラさず、客をねじ伏せて圧倒してくれなきゃダメなの。そんなことが――何年も歌うことから逃げてきたあなたにできるわけないでしょう」

「…だからこそ、です」

「は?」

YUMEを見上げる真壁の瞳はさらに尖り、苛立ちに冷たさが加わった。

「確かにかつてのあなたは天才だった。でも今は違う。才能ってね、使わなきゃあっという間に腐るの。腐った元天才って一番質が悪いんだから、自惚れも、ステージをなめるのもいい加減にして」

YUMEの視線がわずかに落ちる。思わず立ち上がり、庇おうとしたともみを、YUMEが微笑みと共に制した。

「だから……これを最後のチャレンジにしたいんです。真壁さんのジャッジには従いますから」

真壁は腕を組んだまま、沈黙した。無理に決まっているという冷徹な計算の裏で、わずかな欲が芽生えたのかもしれない。それはきっと――もう一度聞いてみたいという欲。かつてYUMEが放つ歌声に、誰よりも圧倒され、惚れこんでいたのは真壁なのだから。

「真壁さん、私からもお願いします」

真壁がゆっくりと椅子を回転させ、ともみを振り返る。

「確かに、さっき作った音源は完璧だったかもしれません。でも…このフェスだけは、もし本物の歌声でいけるのなら、その方が圧倒的に得策でしょう。真壁さんもそう思われているはずです」

「…」
「今、世間を騒がせている匿名の歌い手が、クインツ・ジーのYUMEだったと公表するのなら、曲を披露してから正体をばらすまでの演出が、生々しければ、生々しいほど話題になる」

真壁は話に飽きたかのように、またチョコレートを摘んで口に放りこんだが、ともみは気にせず続けた。

「野外で歌えばハプニングはつきものですし、だからこそ生は際立ちます。マイクの途切れ、そして息遣い。多少ピッチが揺らぐ瞬間があったとしても、それら全部が、今自分たちは生歌を聞いているんだという興奮に結びつきます。そんなドラマチックな生々しさこそが、8年前に消えた歌姫のカムバックに――圧倒的なリアリティを生むことになりませんか?」

その時、サイドテーブルに置かれた真壁の携帯が短く震え、次のミーティングへのタイムリミットを告げた。思考を遮られたことに苛立ったのか、真壁は盛大にため息をつくと、荒々しく立ち上がり、ともみを、そしてYUMEをギロリと一瞥した。

「いいわよ。どうせ無理でしょうけど、足掻いてみれば」

ドアを乱暴に開け、足早に出ていく真壁の背中を見送っても、張り詰めた緊張感はなかなか消えず……ともみとYUMEは脱力するようにソファーに沈み込み、しばらく動けなかった。



スタジオの廊下をYUMEと並んで歩きながら、ともみは胸の奥に残る熱を逃すように、そっと息を吐き出した。

「2人で復讐するためにここにきた。でもね…本当は、歌わせてあげられるなら、歌わせてあげたい、もう一度舞台に立たせてあげたいって、ずっとそう思ってた」

天井の防犯カメラの位置を確認しながら小声で伝えると、YUMEが薄く微笑む。

計画を本格的に始動させる前に、ともみはYUMEの診察に同行していた。もしこの先顎の違和感が完全に消え去ることはなくても、心因的な要因については改善の余地があると医師に説明された。真壁につけられた傷を、真壁の元で克服する。それは過酷な荒療治ではあるけれど、止まった時間を動かす劇薬にはなり得ると。それでも。

「ねえ、YUME」
「はい?」
「無理して歌うのだけは、絶対にだめだよ」
「無理をしたいんです」

少し乱れた前髪を指先で整えながら笑った、その瞳には迷いがなかった。

「あの時、ただ逃げ出してしまったことをずっと後悔していました。でもこうして、ここに戻って来れた。だから今、無理をしてみたいんです。私たちの計画のためにも、私がステージで歌えた方がいい。そうですよね?」
「…それは、そうだけど」

葛藤を拭いきれないともみの腕に、YUMEはそっと、自分の腕を絡ませた。

「ともみさんが一緒にいてくれる。だから私はもう、逃げません」



― ちょうどいい時間になった。

YUMEを事務所から送り出すと、ともみはある場所へと向かいながら、バッグから小さく折られた紙片を取り出し、広げる。

『白石ミウ』と神経質な文字から始まるその紙には、17歳の練習生であるミウのスケジュールが手書きで細かく書き込まれている。大人数でのボイストレーニング、ダンスレッスン、さらに英語学習の時間。その中でも目を引くのは、黄色い蛍光マーカーが引かれた『自主練:毎週火・木曜 19時〜/ 5階第3スタジオ』と記された部分だった。

この時代に紙…と呟いたともみに、佐藤弁護士は「デジタルだと証拠が残りますからね」と、常識だと言わんばかりに手渡してきた。

「彼女は今、手術を拒否してデビューを保留され、整形を受け入れた他の練習生たちから孤立しています。なので共同のカフェスペースを使うのも気まずいようで…」

佐藤は、マーカー部分を指先でトントンと叩いた。

「この木曜日…グループでのボイストレーニングが終わって、19時の自主練が始まるまでの間に、非常階段の踊り場で1人で食事をしていることが多いそうです。

そこでなら、白石ミウさんと2人きりで話ができるかと。あ、階段にある防犯カメラのことは気にする必要はありません。オフにしておきますから」

その日だけね、と恐ろしいことをニコニコと言い放った佐藤の言葉を思い出しながら、静かに非常階段の重い鉄扉を押した。

他に人影はなく、ひんやりと薄暗い。レコーディング室のある6階から下りるともみの足音を追いかけるように、感知式の蛍光灯がカチリ、カチリと灯っていく。

今は木曜日の18時20分過ぎ。レッスン室のある5階の踊り場に、コンクリートの壁にもたれ、オーバーサイズの黒いパーカーのフードを被って、携帯をいじる少女の姿が見えた。

ともみの足音に気づいて視線を上げたものの、すぐに通り過ぎると思ったのか、少女は何の興味もなさそうに、再び画面へと目を落とした。

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TOUGH COOKIES

SUMI

港区・西麻布で密かにウワサになっているBARがある。
その名も“TOUGH COOKIES(タフクッキーズ)”。

女性客しか入れず、看板もない、アクセス方法も明かされていないナゾ多き店だが

その店にたどり着くことができた女性は、“人生を変えることができる”のだという。

心が壊れてしまいそうな夜。
踏み出す勇気が欲しい夜。

そんな夜には、ぜひ
BAR TOUGH COOKIESへ。

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