「松本さま…」
「いやだ、昔の呼び方で呼んでよ」
「では――公子さん。お話に入る前にまずご説明させてください」
ともみが姿勢を正すと、ルビーが機密保持契約の書類を公子に差し出した。
「なにこれ?」
「当店では大切なお客様の秘密をお守りするために…店内で見聞きしたことの全てに機密保持契約を発生させることができます。こちらの書類、全ての項目を読んで頂きまして、もしこの契約が必要と感じられたなら、サインをお願い致します」
「…え?」
呆気にとられた公子をさらに促すと、しぶしぶ感を隠さず公子は書類を読み始めた。
「1,000万円!?」
公子の驚きには、興奮となぜか喜びも混じっていた気がしたけれど、ともみは流して頷く。
「はい。当店でのやりとりにつきましては、私とそちらのルビー、さらにオーナーの3人で保持、共有させていただくことになりますが、万が一我々の過失で外部に情報が洩れ、お客様にご迷惑がかかるようなことがあれば、賠償金として最大1,000万円をお支払いさせて頂くというものです」
「この契約内容だと、こっちにはなんのリスクもないし、店側の負担が大きいだけじゃない」
「お客様に安心して過ごして頂くための契約ですから、当然です」
「…この店のオーナーさんって随分、太っ腹なのね。一体何者なわけ?」
ゴクリと喉を鳴らして、何度も「イッセンマン…」と呟き、下世話な笑みを浮かべてサインする公子を眺めながら、ともみは気がついた。
― この人は、紗和子さんとは違う。
アート界のキングメーカー、清川紗和子は、ともみの過去を子役の頃から調べ上げて来店した。おそらく――関係者以外は知ることがなかった、ともみがアイドルグループを抜けた経緯も掴んでいたのではないだろうか。
けれど公子は、なんとかSneetを見つけることはできたものの、ミチに名刺を渡すまでが精一杯で、TOUGH COOKIESにたどり着くことはできなかった。その上、西麻布の女帝の存在を知らないまま来店したというわけだ。
― つまり、小物、だったんだ、この人は。
かつては公子のことを、世界を支配するような、圧倒的な権力者だと信じていた。この人に従わなければ、夢を失うと怯え、この人に人生を奪われたメンバーもいる。でも。
こみ上げたむなしさに、笑顔で蓋をする。それはかつての――無邪気を装うアイドルの笑みではなく、この街の夜を預かる店主としての笑みで。
「と、ともみ…?」
射貫かれた公子が息を呑み、ルビーがカウンターの下で今度は親指を立てた。ともみに向かって誇らしげに。
「では改めまして、当店にお越しくださいましてありがとうございます。TOUGH COOKIESという店名は、タフでしたたかなこの街の女性たちへのリスペクトと、私自身もそうありたいとの願いをこめてつけたものです。
ではお客様――今夜は心ゆくまで、お話しくださいませ」
過去との決別の夜、その始まりに、ともみは凛々しく頭を下げ……もう一度公子へと、とびきりの――西麻布の微笑みを見せた。
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