豪くんが勝手に頼んだ「真鯛の旨塩ラーメン」は、あっという間にテーブルへと運ばれてきた。
「ここ、居酒屋じゃなくて鯛出汁らーめん屋さんとしても営業してるんだよ」
「へえ、そうなんだ」
自分でも、気もそぞろな返事だったことがわかる。でも仕方ない。だって、目の前に置かれたラーメンのどんぶりは…あまりにも魅力的で、全神経を集中させられざるを得ないような一品だったから。
鯛の出汁の香りが立ち上る黄金色のスープ。その中できらきらつやつやと輝く太めの麺。見るだけでジューシーな味わいが伝わってくる桃色のチャーシュー。
気がつけばもう、私も豪くんもどんぶりに顔を突っ込んでいた。
スープを味わい、麺を啜る。愛媛の真鯛のみで丁寧にとったというお出汁は、口に含んだ途端に香ばしい香りが広がるほど強い味わいなのに、あっさりとしていて体に染み渡る。
そのスープをたっぷりと纏った麺は、つるつるもちもちとしていて歯に楽しく、でも、いくらでもお腹に入りそうに優しい。
鯛の旨みがそのままスープになったようなコクと、喉を滑り落ちる麺の悦び。
もはや罪とも言えそうな深夜の極上の快感に酔いしれながら、一気にラーメンを平らげてしまった。
体の芯から温まった私は、幸福のなかで放心することしかできない。
だから、同じくあっという間にラーメンを平らげた豪くんが何を言ったのか、すぐには理解できなかった。
「俺さ、会社やめてラーメン屋さん始めるんだ。こういう魚介系のラーメンを、ロサンゼルスで」
スープと同じ黄金色に惚けた脳ミソで、豪くんの今の言葉をゆっくりと咀嚼する。
「豪くんが、ラーメン屋さんを」
残っていたスープを、もう一口だけどんぶりを持ち上げて飲んだ。深い味わいは、今度は鮮烈な味がする。
「豪くんが、ラーメン屋さんを。…ロスで?」
どんぶりを下ろすと、豪くんと顔を突き合わせる形になった。
豪くんの目は、とても冗談を言っているようには見えなかった。
ラーメンをあっと言う間に食べ終わってしまった私たちは、それ以上とどまるのも悪い気がして、すぐにお店を出た。
深夜の池尻大橋から、私の部屋がある三軒茶屋までを、並んで歩く。
「さっきまで焼き鳥食べてて、そのままラーメンだったから、さすがに腹ごなししたい」
豪くんはそう言い張るけれど、私を家まで送ってくれているのは明らかだった。
「すごいね、焼き鳥のコースのあとにラーメンなんて」
「俺、ラーメンだったらいくらでも食べられるよ。あと鮨ね。今までも、けっこう深夜に行ってたよ」
「私とデートした後も?」
「うん。付き合い始めのころ何回か誘ったけど、覚えてない?市子は20時以降は絶対食べない!って頑なだったからね。いつも1人で行ってたんだよ」
「そっかぁ…」
豪くんは、もう会社に退職の意向は伝えていて、今月末にはロスへ行ってしまうらしい。
出張で何度もロスに通ううちに、豚骨系のラーメンは大人気なのに、魚介系のラーメンがあまりない様子を見て、どうしても自分でチャレンジしてみたくなった。そう語る豪くんの表情は、真剣そのものだ。
その顔を見ているとやっぱり、溺れそうなほどの悲しみに襲われる。
豪くんに「一緒にいても幸せになれない」と言われたことに対してじゃない。
せっかく一緒にいられた時があったのに、豪くんの好きなことを一緒に楽しめなかった。その、粗末にしてしまった宝物みたいな時間に対しての悲しみだった。
暗い深夜の街は、涙を隠すだけじゃなく、素直な気持ちを伝えることにも適しているらしい。気がつけばつい、思ったことが口からこぼれ出てしまう。
「そんなに食べ物に対しての情熱があるなんて、知らなかったな。ラーメンもお鮨も、もっと一緒に食べればよかったね」
「そうだよ。市子も付き合ってくれればよかったのに」
豪くんの冗談めかした言い方に、2人とも寂しい笑い声をあげる。けれど、次の瞬間だった。
「でもそしたら私、また高校の時みたいにぽっちゃりに戻っちゃってたよ。深夜に美味しいものをたくさん食べてたら、さすがに豪くんのタイプの細い体型ではいられない」
そう言った途端───空気が変わったのだ。
「え?細い体型って…俺のタイプが?」
「うん、豪くん。細い子が好きでしょ。高校の時、友達に聞いてもらったの。それ聞いてから20時半以降は何も食べないダイエットして痩せたんだよね。今だから言うけど私、高校の時からずっと、豪くんのことが好きだったから」
悲しみを隠すための笑顔を浮かべて伝えたけれど、豪くんは笑っていなかった。
一緒に歩いていた足が止まる。一歩後ろに止まった豪くんが、私に問いかける。
「いや、ちょっと…本当に待ってよ。俺…俺さ、女の子の体型なんて、全然気にしたことないよ」
「え?」
豪くんが何を言っているのか、またしても分からなかった。
私たちは別れた。豪くんはロスに行く。「よりを戻したい」という私のお願いの答えは、NOに決まっている。
それなのに───。
「俺も高校の時、市子が好きだった。市子…いや、いつも美味しそうに食べてる廣田さんのことが、ずっと好きだったんだよ。
いつか廣田さんと美味しいものを食べるデートができたらって…そう思ったのがキッカケで、俺も食べることが好きになったんだ」
「え?でも…」
豪くんも、夜の魔法にかかっているのだろうか。道は暗くて顔はよく見えないけれど、その声にもどかしさや歯痒さが滲んでいることが不思議と伝わってくる。
もしかしたら私たちは、もっときちんと話し合うべきなのかもしれない。
夜は長い。まだ時間は残されている。温かな鯛出汁のラーメンで、とことん話し合うエネルギーだってある。
「ねえ…」
気がつくと私は、立ち尽くす豪くんに言葉をかけていた。
豪くんを好きになってから、豪くんに好きになって欲しいと願ってから、これまでに一度だってかけたことのない、誘いの言葉を。
「もうこんなに遅い時間だけど───うちで何か、デザートでも食べていかない?」
▶前回:初デートも2回目も、いい雰囲気でも2軒目に行かずに解散する男。その理由とは?
▶1話目はこちら:細い女性がタイプの彼氏のため、20時以降は何も食べない女。そのルールを破った理由
▶Next:2月16日 月曜更新予定
豪と市子のあいだにあった、意外なすれ違い…。一方、ハリーを追った双葉のその後







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