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― ああ、あの時。ホント早とちりでキレちゃわなくてよかった。
ビールを飲み進めながら、私はあの夜を思い出して苦笑いする。カムジャジョンはもうなくなってしまったから、今のつまみはもっぱら白菜のキムチだ。
結局あのあと向井さんは、早紀の大好きな『ブボ・バルセロナ』のチョコレートケーキの入手に成功したらしい。
このまえ早紀から「クッキーのネットショップを開こうと思う」という興奮気味の連絡が入ったところをみると、きっと、ゆっくりと夫婦で話をする時間も取れたのだろう。
と、その時だった。先ほどチラと目線をやったことに気がついたのかもしれない。
向こうの席についていた向井さんが、マッコリのボトルを手にしたままおもむろにこちらに近づいてきたかと思うと、どっかりと私の隣の席に腰を下ろした。
「おう、双葉。この前はありがとな!」
「無事仲直りできたみたいで、よかったですね。最近はどうですか?」
「おかげさまで、夜中にデート行くまでに復活!ほんと、双葉様にアドバイスいただいて助かりました。俺がどれだけ早紀に甘えてたのかって」
「気づけてなによりです」
「いや、分かったんだよ。子どもが小さいからって諦めてたけど、子ども寝かしつけちゃった後なら、義理の妹ちゃんに頼んでちょっとデート行けるの」
「それはそれは」
「だからさ、最近は夜中もやってる美味しい店探し中ってワケ。この店も、朝の3時までやってるんだって。いいだろ?」
「やっぱり、そうだと思ったんですよ。出版業界は夜深いから〜とか言ってましたけど、早紀のためだろうなーって」
「まあ、家族一番でやらせていただいてますんで」
そう言ってマッコリを飲んでいる向井さんは、やっぱりすごくかっこよくて…私の胸はつい、ツンとした痛みを覚えてしまう。
だけど、今の私にはもうハッキリと分かっていた。
この痛みには、意味がないということが。
私が好きだったのは、早紀に夢中な向井さんだ。
新入社員として入ってきた早紀に一目惚れをして、仕事で支え、不器用ながらもだんだんと早紀と心を通わせ始めていた向井さんだったのだ。
そんな向井さんを遠くから見て、私は恋をした。
だから、長い時間が経ってしまったけれど…私はもう、本当に平気だ。
鍋が運ばれてくる。
オマールエビや蛤、ムール貝など新鮮な魚介がふんだんに使われている鍋は、「韓国鍋で作るブイヤベース」というメニュー名の通り、深くて辛い味がした。
「めちゃくちゃ美味しい」
そう言って夢中で味わう向井さんは、きっと早紀を思い浮かべているのだろう。
今度、子どもを寝かしてから2人で来ようか、とか、早紀は気に入るかな、とか。それはとっても、幸せなことだと思った。
一方の私は───。
こんなに美味しい韓国料理を食べても、幸せなことを考えられない。
ハリーは、きっとここには来ない。韓国に行ってしまう人を、韓国料理に誘うだなんて、とんでもなくマヌケなことだから。
― いけない。また、ハリーのことなんて考えちゃった。
拜拜(バイバイ)。
その苦い響きにまたしても沈んでしまいそうになった私は、今夜6杯目になるビールを注文しよう手をあげる。
でも…あげようとしたその手を、向井さんがそっと押し留めた。
「飲み過ぎ」
「いや、これくらい普通にいつも飲みますし」
「祝杯ならいいけどね。可愛い後輩のヤケ酒は、止めるでしょ」
そう言って向井さんは、いつのまにか頼んでいたウーロン茶を私に差し出すのだった。
「…なんで、ヤケ酒だって思うんですか」
「そりゃ、何年双葉の教育してると思ってるの」
「何にも気づかなかったくせに…」
「え?」
相変わらずこの人は、仕事のことならわかるけれど、女のことは全く分かっていない。
大きなため息が漏れそうになるのを我慢して、私はヤケ酒ならぬヤケウーロン茶を喉に流し込む。
「なんでもないです。どうせもう、“今回も”間に合わないんですもん」
「今回もの意味がわからないけど、何が間に合わないのよ」
「うるさいなぁ〜。ちょっと気になる人がいたけど、韓国に行っちゃったんです!」
「そうなの?いつ?」
「いつ?って…。え…いつ、なんだろう」
『つぎは、韓国に行くことになりました。これから会えないだけど…。双葉さん、大好きでした』
ハリーが私にそう言ったのは、たかだか3週間前のことだ。
もしかして。もしかしたら、ハリーはまだ日本から出発していない可能性もあるのだろうか?
「いつ、行ったんでしょう?」
「知らないよ。聞いてみれば?もう行っちゃった?って」
「そんな」
「それか、家行ってみたら?今夜中に決着つくんじゃない」
「家に?」
家は、知っていた。
一回だけ、ハリーのルームメイトのインド人を紹介するということで、お部屋で本場のインド料理をご馳走になったことがあるのだ。
「渋谷の彼の家に?」
「いや、知らないけど。渋谷なら西麻布からすぐじゃん。双葉には幸せになってほしいし、俺タクシー奢るよ?ホラ」
そう言って向井さんは、目の前でタクシーアプリを立ち上げ始めるのだった。
西麻布から渋谷までは、タクシーでほんの10分程度だ。
23時の今なら車も混んでいないから、もっと早く着く可能性だってある。
本当に?今から?そもそもハリーはまだ日本に?もしいなかったら?もしいたら?
頭の中がぐるぐると回転して、あの天ぷらの夜以上の混乱が私を襲う。
だけどやっぱり今夜も、頭よりも先に心の方が私に教えるのだ。
もしも渋谷の部屋に行って、そこにまだハリーがいたら───。
「私もハリーが大好き」って、ちゃんと伝えられるよ…って。
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向井への想いに決着がつき、ハリーへ気持ちを伝える気になった双葉。一方、気持ちをストレートに伝え続けている栞は…







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