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今夜、罪の味を Vol.5

23年間彼氏ナシの総合商社勤務の女。社内の忘年会を抜け出して、男の先輩と初めて向かった先は

有栖川匠



新宿の忘年会会場前から、徒歩15分。

「ラーメンじゃなくてごめんだけど」

そう言われてたどり着いたのは、代々木駅近くの雑居ビルだった。

― これが、豪さんが忘年会を抜けてまで来たかったお店…?

にわかに、胸がザワザワと不安を覚え始める。

22時半、会社の先輩とはいえあまり話したことのない男性とふたりきり。

「え…一緒に行ってもいいんですか?」

日頃、取引先のお嬢様として腫れ物扱いを受けている私に、気軽に声をかけてくれた。それが嬉しくてそう即答してしまったけれど、無防備に付いてきてしまったのは軽はずみな行動だったかもしれない。

ここまで歩いてくる道中、突然街中でライトアップされたクリスマスツリーがすごく綺麗だったことが、すごく遠い昔のことのように感じる。

「この階段の上がったところ。暗いから気をつけて」

― パパ、ごめんなさい…。きっとこれは、門限を守らなかった罪への罰です…!

豪さんに言われるがまま私は、逃げることもできずに薄暗い雑居ビルの階段を上っていく。

だけど、階段の先で豪さんが開けた扉の先から聞こえてきたのは、怪しさとは全く無縁の清潔で快活な声だった。

「あい、いらっしゃいませー!お待ちしてましたぁ!」


「ごめんね、お客さん。そこ2名さん入るからちょっと詰めて!」

コンパクトながら賑やかな店内の中央には、L字方のカウンターが構えられている。

先にいた5、6人のお客さんが、私たちのために間を空けてくれる。不思議なことに、店内の全員が立っていた。

「ここ…お鮨屋さんですか?」

驚く私に、豪さんは言った。

「そう。紹介制の立ち食い鮨。お客さんから紹介してもらったんだけど、めちゃくちゃ人気でずっと来られなくて。

さっきちょうどキャンセルが出たって情報が出てたから、つい忘年会抜けてきちゃった」

「お鮨、好きなんですか?」

「うん。鮨とラーメンが好き。この二つは、がんばって研究してるんだよね」

そう語る豪さんはまた、さっきと同じ子どものような顔をしている。だけど、そんな無邪気な表情のまま、こんなことも言えるのが不思議だ。

「好きなもの好きなだけ食べなよ。人の分取り分けてばっかりで、ろくに食べてなかったんでしょ」

「…気づいていたんですか?」

「栞ちゃんにちょっと似た人、知ってるから。頑張りすぎるのもほどほどにね。さ、食べよ」


提供されるお鮨は、どれもこれも絶品だった。

自慢じゃないけれど、私もちょっとしたお鮨通である自負がある。銀座や麻布の名店には幼い頃から父と一緒に足を運んでいるし、父の会社のパーティーでは有名な職人の方を招いたことも少なくない。

だけど、このお店のお鮨は、そういった一流鮨とは全くの別物だった。

手の込んだ、というより、素材を活かした豪快な握り。

ネタの順番など誰も気にせず、好きなものを好きなタイミングで注文する明快さ。

そういうダイナミックな美味しさに、立ち食いというスタイルがこの上なくマッチしている。お上品に膝を揃える必要はなく、舌の上で躍る車海老と一緒にステップを踏んだっていい。

気がつけば私は、車海老を3回もおかわりしてしまっているのだった。


お店を出た頃には、時刻は24時近くなっていた。

「あ〜、美味しかったぁ」

深夜とは思えないほど満腹になったお腹をさすりながら私が言うと、豪さんがからかうように言う。

「もう、羨ましくない?」

照れ隠しで乱暴に「おかげさまで」と言い返すと、豪さんはやっぱり、小さい子どもみたいに笑った。

虎ノ門に住んでいるという豪さんと一緒に、タクシーに乗り込む。

「それにしても栞ちゃん、いい食べっぷりだったなぁ」

「ありがとうございます。だって…」

「だって?」

「深夜に食べるごはんって、なんだかいつもよりも美味しく感じません?こんなこと初めてで、嬉しくて!」

「ははは、わかる」

タクシーの車内での会話はそんなとりとめもないことばかりだったけれど、信じられないほどに楽しかった。

麻布の家に送ってもらうまでに、父からも母からも数件の着信とLINEが入ったけれど、この時間を大切にしたくて、全て気づかないふりをした。

こんなこと、人生で初めてだ。

「そうなんだよ。食べるのって、楽しいのになぁ…。女の子って、やっぱり太ることとか気にする子多いよね。

栞ちゃんは、そういうの気にならないの?」

― 豪さんは、太ることを気にする女の子との思い出があるんだ。

そんなことにピンと来てしまって、胸がちくんと痛むのも、人生で初めてのことだった。

そして、タクシーを降りるまでに男の人にこんなことを言うのも、やっぱり初めてのことになる。

「良かったら、また一緒に美味しいもの食べたいです。夜遅くでも、何時でも」


▶前回:「え、もう新しい彼女?」別れて1ヶ月で元彼のデート現場を目撃した女のリアル

▶1話目はこちら:細い女性がタイプの彼氏のため、20時以降は何も食べない女。そのルールを破った理由

▶Next:12月22日 月曜更新予定
早紀の夫・向井への気持ちが消せない双葉。他の男性とのデートで…

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この記事へのコメント

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No Name
おまかせの高級鮨屋ばかりもてはやされ過剰評価される昨今、たまには好きなものをオーダー出来るカジュアルなお鮨もいいよねぇ。ここから恋愛が始まりそうだし。
2025/12/15 06:1418Comment Icon4
No Name
普通の恋愛したらいいよ。豪と上手くいきますように!
2025/12/15 06:2718
もう社会人なのに門限21時…
親もちょっと…。事前に言えばOKなのかもしれないけどそれでも繰り返し電話してくるのは過保護過ぎ。
2025/12/15 06:2115
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今夜、罪の味を

有栖川匠

悲しい夜。眠れない夜。寝たくない夜。

さまざまな感情に飲み込まれそうになる夜にも、東京では美食がそばにいてくれる。

ディナータイムのあとに、自分を甘やかす“罪の味”。

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