すぐに目は逸らしたものの、男性の方からは一瞬の間に奇妙な目配せがあったように思う。
まるで、「あなたもですか。お互いに楽しみましょう」というような…。
だけど僕は、そんな彼からのメッセージを非常に不快に感じた。
きっと彼は、仕事や妻や家庭の合間に、美女と美食でほんの少しの大人の火遊びを楽しんでいるつもりなのだろう。
そんなことと一緒にされては心外だ。
僕のこれは、全く彼が思うような目的とは違うのだから──。
「院長、どうされました?新子、お嫌いでしたっけ?」
結城さんの言葉に、僕ははっと現実に引き戻される。
「いや、そんなことないよ」と答えると、結城さんはちょっとイタズラっぽい表情を口の端に浮かべて冗談を飛ばすのだった。
「院長はもう、出世し尽くしたコノシロですもんね」
彼女は、新子が出世魚で、コハダ、ナカズミ、コノシロと出世していくことを知っているのだ。
そして、クリニックを開業して院長となった僕のことを、おだてるふりをして…からかっている。
「なんだよ。52歳なんて、もうオジサンだって言いたいんだろ」
結城さんのくすぐるような冗談を鼻で笑うと、僕はまた櫻正宗の猪口を傾けた。
結城さんが僕のことを「院長」と呼ぶのは、その名の通り、僕が院長だからだ。
大手町に頭痛外来のクリニックを開業して、今年で4年になる。
おかげさまで経営も順調だし、大学病院で脳神経外科医をしていた時とは比べものにならないほど自由な時間も増えた。こうしてゆっくり外食する時間も持てるようになったのがいい証拠だ。
経営がうまくいっているのは、別に僕の腕がいいからというわけじゃない。
手術が必要な患者さんはもっと大きな病院に紹介してしまうのだから、脳神経外科医としての手腕が生かされるタイミングはそうない。
繁盛の決め手は、大手町という立地を確保できたことが大きい。それから、充実した設備。
スタッフの質も大切にした。特に、患者さんとやりとりすることの多いスタッフは、綺麗どころを集めたつもりだ。結城さんもそのうちの1人だ。
きっと患者さんの中には、結城さん目当てで通う方もいるだろう。こうして2人で食事に行けるのは、雇用主である院長ならではの特権だと思う。
それでも結城さんとは“潮時”だと思うのは、僕の目的にそぐわないから。
はたからどうみられているかは分からないけれど、僕と結城さんの間にやましいことは何もない。
手を繋いだこともなければ、もちろんそれ以上のことなんて起こりうるわけもない。雇用主が従業員に手なんて出そうものなら、今のご時世大問題になってしまう。
結城さんは僕にとってはただ、「美味しいご飯を食べさせたい若い人」というだけ。
50歳を越えたころから、嘘みたいに色々な欲がなくなってきた。
金銭的には十分に潤っているし、仕事もある程度までは上り詰めたとも思う。
物欲もすぐに満たされてしまうし、睡眠も若い頃のようにそう長くは眠っていられない。性欲はもうとっくに枯れてしまったようなものだ。
唯一残っているのが、食欲。
ただし、形を変えて──。
この記事へのコメント
うーん、結城さんは「業務の延長で一緒にお鮨食べてあげてるんだから残業代つけてよ」位思ってるかもしれないね。どうせクリニックの経費で落とすんでしょって。
52歳ではなく72歳かと思うほど。性欲はもうとっくに枯れてしまったようなものだ ? そうなん、早過ぎない?