料理が好きというだけで、後先考えずに10代で飛び込んだパリの街。
実戦で鍛えた腕を見込んで、20代の僕をこの店に招いてくれた五味さんとの出会い。
そして今はその五味さんが、たかだか32歳の僕に店の経営を任せようとしてくれている――。
もちろん、今すぐ急に、というわけじゃない。しばらくは五味さんのもとでしっかりと経営を学び、徐々に引き継いでいく形にはなると思う。
だけど五味さんは、恐縮する僕にこう言ってくれたのだ。
「まだ若いから、なんて関係ないよ。常に向上心を忘れない三隅くんにだったら、きっと任せられると思うんだ」
絶対に、五味さんの期待に応えたい。そのためには、一瞬たりとも止まってはいられない。
疲れなんて感じている暇はなかった。
朝の市場の買い付けから、深夜の新メニュー開発。そして経営の勉強まで、アドレナリンは途切れることはない。
― そうだ。五味さんのためにも、常に向上心を持って全力で戦ってみせる。
だけどそんな僕にとって、唯一この決意が緩んでしまう場所があるのだ。
それは、後楽園の1LDK。
彼女のサチが待つ、僕の部屋だ。
店を閉めて家に帰れたのは、いつもと同じく終電の時間だった。
「おかえり、健吾」
ドアを開けるなり、サチの出迎えの言葉が聞こえた。
24時をとっくに回っているというのに、サチは絶対に僕の帰りを待っていてくれる。
そして、「いくらシェフだからって、家では自分が作ったもの以外も食べたいでしょ」と言って、手作りの夜食を用意してくれているのだ。
「サチ。いつも言ってるけど、寝てていいのに。でもありがとう」
厨房で油っぽくなった体をシャワーで流している間に、コーヒーテーブルには夜食の準備が整っている。
今日のメニューは、おにぎりが二つと、熱い味噌汁。
サチが作ってくれる夜食は、なんだか実家に帰ったような、ホッとした気持ちになれるような、素朴な献立なことがほとんどだ。
「お店、忙しそうだねぇ」
「まあね。今はグラタンがまだ人気だけど、夏本番にむけてもっとサッパリしたメニューもたくさん作りたいんだ」
「そっかぁ。あんまり無理はしないでね」
「大丈夫。30歳越えてから、ちょっと視野が開けてきたっていうか。ここのところますます仕事が楽しいんだよね」
「えらいね健吾は。私も頑張らないと」
そう相槌を打つサチの声は、僕よりひとつ年下とは思えないほど大人っぽく、あたたかな落ち着きに満ちている。
すでにすっぴんになった頬は、化粧水やらクリームやらが塗られているからなのだろうか。ぴかぴかと桃色に輝いている。
― はあ。本当に、サチといるとホッとするな。
部屋に満ちる、幸福なぬくもり。まるでこの、あたたかな味噌汁のようだ。
僕ももういい歳になったというのに、サチの前では子どものように甘えたくなる。
彼女を前にしてこの素朴な夜食を味わっていると、張り詰めた神経がゆるゆると解ける。
「健吾、美味しい?」
「うん」
優しく微笑みながら尋ねるサチに、同じく微笑みで応える。
けれど僕はその反面、心の中ではこんなふうに考えてしまうのだった。
― 本当に、これでいいのかな…。
サチの前に付き合っていた彼女――美保とは、20代後半のほとんどを一緒に過ごした。
パリのフレンチレストランで働く僕と、フランスの航空会社でフライトアテンダントとして働いていた美保。
彼女から何度も「30歳前に結婚したい」と言われてお互い日本に帰ってきたものの、そこで五味さんと出会った僕は、もっともっと新しい挑戦がしたくなって――。
その結果、仕事と美保とを両立することができなくなり、5年という歳月を共にしたにもかかわらず、きっぱりと仕事の方を選んで別れたのだ。
それなのに…。
この記事へのコメント
途中、白川様が出てきたので45歳なんじゃないの(次のターゲット) と思ったらやっぱり。 あり得ない本音って? パパ活とかしてたら残念過ぎるけど、側から見ると幸せあふれる夫婦でも色々あるって事なのかもね?