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人間というのは不思議なもので、身につけるものが一流になると、自然と自信も湧いてくるものらしい。
内心どこかで「こんな高級ニット、どこに着ていくんだよ?」という気持ちがわずかに捨てきれなかった僕だけれど、上質なものを身につけるとやっぱり気分がいい。
清水の舞台から飛び降りて、まだ2週間ちょっと。でも、シャツの上に羽織るもよし。ジャケットの下に仕込むもよしのニットはどんなコーディネートにもフィットして、すぐに一軍の服として大活躍してくれた。
それだけじゃない。
このニットを着ていると、大野木までとは行かないまでも、若造には出せない色気みたいなものが少しだけ滲み出ているような気がする。
すっかりテンションが上がった僕は、このニットを着ている日だけは、わざわざ外にちょっといいランチをしにいく習慣が付き始めているのだった。
今日のランチに選んだのは、会社から徒歩15分くらいのところにある、銀座の裏路地のカウンターフレンチだ。
「まだ男を捨てない」と心に決めて以来なんとなく、デートやひとりで使えそうなオシャレで美味しいお店をネットで調べ、リストアップしてみている。
そのリストによると、グルメな大人たちの間で人気の、知る人ぞ知る名店らしい。
― 大野木だったらきっと、こういうところでサラッと嫌味なくランチもするだろうな。
もしかしたら、大野木にバッタリ会ったりして。
そう思いながら入ったものの、その店で僕を待っていたのは、大野木との出会いではなかった。
「おひとり様ですね、どうぞ」
物腰の柔らかい50代と思しき店員に案内された、カウンター席。
その隣に座っていたのは、社内でたまに会議が一緒になる後輩──その美貌で社内でちょっとした有名人としても知られる女の子、二ノ宮さんだったのだ。
「あれっ、洞沢さん?」
「あ、二ノ宮さん…だよね?」
「偶然ですね!ここよくいらっしゃるんですか?美味しいですよね」
「ああ、うん。まあ、割とよく来る…かな」
全くの嘘だ。来店は初めて。
どうして咄嗟にそんな嘘をついてしまったのか分からない。
けれど、成り行き上一緒に二ノ宮さんとランチをしているうちに、なんとなく自分で自分が理解できるような気がした。
こんな風に、妻ではない──その上20代の若い女の子と食事するなんて、本当に久しぶりの出来事だ。
偶然とはいえ、ほんの少しだけ胸がときめく。
二ノ宮さんとのこの同席は、まさに僕が追い求めていた、これまでの人生に欠けていたパズルのピースみたいに感じられたのだ。
― おいおい。俺、けっこうイケオジ出来てるんじゃないの!?
ランチ中の会話は思いのほか盛り上がり、そんな自分がちょっと誇らしい。
もちろんランチ代は、押し付けがましくないように彼女の分まで支払いを済ませた。きっと、大野木ならそうすると思ったから。
「なんだか、ご馳走になってしまってすみません…。洞沢さんがこんなに楽しい人だと思いませんでした」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
店から社への帰り道も、僕と二ノ宮さんとの会話は途切れることはなかった。それどころか、二ノ宮さんのほうが積極的なくらいだ。
「あの、洞沢さんって他にも美味しいお店たくさんご存じなんですか?」
「うん、まあね」
「私、美味しいお店大好きで!こうしてランチも妥協できないところ、私たち少し似てますね」
「そうだね」
急拵えのリストが、頭の中を駆け巡る。と、その時だった。
いつのまにか到着してしまった社のエントランス前で、二ノ宮さんがニコッと微笑みながらささやいたのだ。
「洞沢さん。…よかったら、また今度ディナーとかもご一緒しません?」
「え?」
「洞沢さんって、私より20歳くらい年上ですよね。ここだけの話…私、ファザコンなんです…」
「え?」
「じゃあ、お誘い待ってますね」
そう言い残すなり小走りで去っていく二ノ宮さんの後ろ姿を見つめながら、僕はもう一度声を漏らす。
「え…?」
鼓動が高まる。胸が締め付けられる。
甘酸っぱい感情に体温が上がり、すぐにもサマーニットを脱ぎ捨ててしまおうかと思った。
◆
ぼーっとしたまま家に帰った僕は、一刻も早く冷静になりたくて、夢見心地から目覚めるためにバスルームへとかけこんだ。
― もしかして、僕もついに45歳の色気が備わってきた…ってことか…!?
冷たいシャワーを浴び、脱衣所で鏡をまじまじと見つめる。
鏡に映る自分は心なしか、少しだけ見られるようになっているような気もした。
「パパー、洋太郎迎えに行って〜」
「わかったよ、ママ!」
色気のない妻との会話も、今は全く気にならない。
上機嫌のままユニクロのTシャツに袖を通し、7年乗っているアルファードに乗り込む。
けれど、風呂から上がって、塾で洋太郎を拾った今もまだ、甘い夢を見ているみたいだった。
― 俺、もしかしてこれから…若い頃にはしなかったような、大人の遊びに目覚めたりとかするのか?
胸は、高鳴りっぱなしだ。21万のセーターを買った時も、こんなドキドキはなかった。
もし二ノ宮さんと食事に行くなら、いったいどんな店に連れていけばいいんだろう?
しきりに話しかけてくる洋太郎をあしらいながら、駐車場からのエレベーターの中でスマホを取り出し、美味しいと評判のお店のリスト確認する。
けれど、その時だった。
自宅フロアに到着し、ドアを開けた途端。しょんぼりとした妻の顔が飛び込んできた。
「パパ、ごめんなさい…!これ気に入ってたやつだよね…?」
「へ?何が?」
気もそぞろにスマホから顔を上げる。
と、目に入ってきたのは、妻が持っていたあの一張羅のセーターだった。
けれど…さっきまでの様子と、何かが違う。
小さい。
どう見ても小さい。
妻の手の中で僕のセーターは、まるで子供服のようなサイズに変わり果てているのだった。
「間違えて乾燥機にかけちゃって。ごめんねパパ…」
言葉が見つからず、僕はポカンと口を開ける。遠くで、洋太郎の声が聞こえた。
「やべー、すごい縮んでる!ねえパパ、これもう着ないよね?俺がもらってもいい?」
「こら、洋太郎。ヤバイなんて言葉使わないの。でも、そうね。パパ。このセーター、洋太郎のにしちゃってもいい?」
「イエーイ!俺の俺のー!なんかすっげー寒いんだよね、塾の自習室」
「そっか、じゃあこれ着なさい。ごめんねパパ。似たようなの探して来るから。これどこで買ったの?」
目の前で繰り広げられるのは、いつも通りの家族のやりとりだった。
なんの色気もあったもんじゃない、所帯じみた光景。僕の受けたショックなど、全くお構いなし。
けれど…その光景を前にして僕の胸に込み上げてきたのは、どうしようもない面白さだった。
「ハ、ハハハ…」
「どうしたの、パパ。やっぱりショックだった…?」
急に笑い出した僕に、妻は心配そうな顔を浮かべる。
けれど僕は、滲み出て来る涙を拭いながら、軽い口調で答えた。
「いやいや、なんでもない。ずいぶん可愛くなっちゃったなぁと思っただけ。大したことないやつだから、大丈夫だよ」
「…そう?ごめんねパパ。
ねえ、洋太郎。もうすぐ父の日だし、ふたりからはセータープレゼントしよっか」
「オッケー、ママ!ねえ、父の日はどこか外食する?俺、いつも弁当だからたまには美味しいもの食べに行きたい」
そう答える洋太郎は、いつのまにかすでに僕のニットを身につけている。
つんつるてんに縮んだニットは、俺と妻によく似た息子に、とてもよく似合っていた。
45歳。
大野木みたいな色気のある人生とは、僕はどうにも縁がないらしい。
だけど間違いなく感じるのは、僕を爆笑させるこのたまらないおかしさも、45歳の今でした感じられないものということだ。
「わかったよ、洋太郎。おいしい食事をしに行こう。そのかわり、勉強がんばれよな」
そう言いながら僕は、もう一度リストを見直す。
選りすぐりのこのリストの中に、家族連れ歓迎な店もあるだろうか?
美女と行く美味しいものよりも、腹の出た45歳の僕の行きたいのは、もっとカジュアルな店なのだ。
ニットを着こなしながら、瞳をキラキラと輝かせる息子を見ながら思う。
この、おもしろおかしくて色気のかけらもない感情の名前は──多分、“幸せ”というのだろう。
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45歳の洞沢が、劣等感を払拭するために訪れたフレンチ。そのフレンチを経営する52歳の苦悩
この記事へのコメント
だらしないメタボ体型を改善してから色気だの何だの言ってくれる? 😂
ニットは息子ちゃんのものになったけど目の前の幸せに気付けたなら21万はそんなに高い勉強代でもなかったかw
それにしてもお値段からして緊張感のあるニットだこと