「いえ…菜穂さんがどうこう、とかではないんです。なんていうか、外的要因で」
「外的…要因?」
「その…。曖昧にしても仕方ないので申し上げると、実はアプリでデートしている人が他にもいて、昨日告白をしました。それで今、LINEでOKをもらって」
― え?えええ…。
私はイスから崩れ落ちそうになる。気持ちを落ち着かせようと、目の前にあった中国茶のポットに手を伸ばし、自分のカップに注ぎながら言った。
「そ、それはいい知らせじゃないですか」
「…本当にすみません」
「全然ですよ!いいお相手が見つかってよかったですね。なんだか勇気をもらえました、私も頑張ります」
私は、小さく拍手までしてしまった。別に、宏伸さんを祝福したいわけではない。ただ、自分の惨めさを少しでも減らしたくて、必死だった。
気まずい雰囲気で店を出て、すぐに解散した。
逃げるように日比谷線に乗り込み、空いている席に腰掛ける。向かいの大きな車窓に映る、ハーフアップ姿のめかしこんだ自分が悲しい。
― まあ、そんなにうまくいくわけないよね。
失恋とは違う、まるで就職活動で落ちてしまったときのような、どこか割り切った気分だった。
電車に揺られながら、なんの脈絡もなく思い出すのは、元カレのことだった。20代半ばで約3年間付き合った、5歳上の元カレ・博俊のこと。
◆
彼は、料理人として一流ホテルで働いていた。
料理人と一緒に過ごす日々は楽しかった。ちょっと背伸びしたお店にも積極的に連れていってくれたり、半同棲状態になってからは、美味しい料理をたくさん振る舞ってくれたり。
博俊は日頃の愛情表現も上手で、いわゆる「尽くしてくれるタイプ」。そんな彼が私は大好きだった。
でも、交際3年目にもなると、様子が明らかに変わった。博俊は、休日はゴロゴロして一緒に出かけてくれなくなったし、料理を振る舞ってくれることも減った。
昔は定期的にくれていたちょっとしたプレゼントも、気づけば一切なくなっていた。
そこで私は、思い切って聞いたのだった。
「ねえ、私のこと好き?私への気持ち、どんどん減ってる気がして」
博俊は「好きだよ」と即答してくれたが、続けて「でも、菜穂への気持ちは変わってきてる」と言った。
「なんていうか、『女性として好き』から、『人として好き』に変わったかも」
今となっては彼の言葉もわかる。だが、当時の私にとって、それは格下げを意味していた。
「女性として見れなくなった」。そう言われたような気がして、モヤモヤして、たくさん泣いて、翌月には私から別れを切り出した。
博俊はそのときようやく、自分の言葉の重みに気づいた様子だった。彼は泣きながら謝り、最後にはなんと「菜穂と、結婚したいと思ってる」とひざまずいた。
私は心底驚きながらも、丁重に断ったのを覚えている。プロポーズとは、愛が最高潮に盛り上がったときにする、ドラマティックなものであるべきだと信じていたから。
◆
― 私、若かったなあ。
あのときグシャグシャにしてかなぐり捨てた「愛」が、今となっては宝物のようにも思える。
― 博俊、まだ結婚してなかったり…するのかな。
しばらく思い出さなかった元カレを思い出すなんて、「今持ち玉がゼロだから」だろう。自分が情けない。それでも私はGoogleを開いて、彼の名前を検索窓に打ち込んでいた。
出てきた記事によると、博俊は今はホテルのシェフを辞めて、渋谷区にお店を2店舗も出して活躍しているらしい。
― すごい、成功してるんだ。
とたんに「別れなきゃよかった」と思ってしまい、浅はかな自分にうんざりする。
優しくて仕事熱心な彼を、たった一回の発言で見限ったのは自分なのに。
そのとき、お母さんからのLINEが届く。
『お母さん:ねえ、どうだった?アプリで会った人、ちゃんとした人だった?』
― ちゃんとした人だったと思うよ。…私は、うまく恋愛対象にはなれなかったけれど。
心の中で答えていると、再びスマホがバイブレーションする。
『お母さん:この前、アプリより自然な出会いがいいって言ってごめんなさい。由佳に、考えが古いって怒られちゃった』
私は、由佳の配慮に感謝しながら、霞ヶ関駅で乗り換えのために席を立つ。開く寸前のドアには、結婚相談所の広告シールが貼られていた。
― 結婚相談所か。
アプリを久々に始めたとき、結婚相談所に登録することも少しは頭によぎった。でも個人的に、結婚相談所は「アプリがダメだったらやるもの」だと思って、手をつけなかった。
― とはいえ…やってみるか。
行動しているほうが、不安にならずに済む。
私は近々結婚相談所に行ってみようと決意し、駅のホームに降り立った。
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結婚相談所に行くと決意した菜穂。相談所の人からの思わぬ言葉に動揺し…?
この記事へのコメント
アプリだし菜穂も複数人とデートしてたんだから、まぁ相手も同じだろうし仕方ないよ。
相談所で様々ダメ...続きを見る出しされて婚活に疲れが出始めた頃、時短勤務の同僚との対談で彼女に既婚マウント取られて落ち込み、元カレに連絡とかそんな話の流れか?笑