リビングに行き、旭の脱ぎ散らかした服やゴミを片付ける。そして昔使っていたノートを取り出すと一枚ちぎり、旭に宛てた。
「旭、出張お疲れさま。元気にしてますか?ご飯、ちゃんと食べてる?外食ばかりじゃなくて、たまには体にいいものを食べてください。恵奈」
そして最後に、シュッと香水をそのメモに吹きかけ、出ていった。
恵奈自身、どうしてあんな行動をとったかわからない。少しだけ、自分の存在を感じて欲しかったのかもしれない。
あれほど息苦しかったこの家だったが、旭の匂いを感じて、どこか居心地の良さを感じた。
◆
あれから3週間が過ぎた。
旭とはそれっきり、連絡も取っていない。
自分の残したメモなんて、彼にはなんの意味もなかったのだろうと思うと、心が少しヒリつく。
そんな時、ポストを開けると封筒が入っていた。裏には旭の名前。
― 旭から…?急にどうして…?
これまで一度も、旭から手紙をもらったことなどない。彼はまめな方ではなく、LINEも付き合っていた頃から短文だった。
急に届いた封筒を見て、「離婚届が入っているのでは?」と恵奈は一気に緊張感に包まれる。
恐る恐る開けると、中には手書きで埋められた手紙が入っていた。
◆
恵奈へ。恵奈がメモを残してくれたことに驚きました。
恵奈はもう、自分のことなど気にかけていないと思っていたから。
正直嬉しかった。だから僕も手紙を書こうと思いました。
いざ書き始めると、何を書いていいのかわからず、何度も書き直しました。
僕はずっと、2人がこうなってしまったことを後悔していた。本当はずっと仲直りしたかったけど、ろくに話し合いも持てず、君が何を思っているのかわからなかった。
でも今思えば、ただもっと気持ちを伝えれば良かった。恵奈と仲直りしたいと言えば良かった。
面と向かってだと言いづらいけど、手紙だと本音を書ける気がする。
また書きます。恵奈も元気で。
最後に。
恵奈の手紙から懐かしい君の匂いがした。
僕が恵奈と社内ですれ違った時、香りに先に惹かれた。
そのあと一生懸命プレゼンする姿を見て、香りのままの素敵な人だと思った。
今さらだけど、そんなことを思い出したよ。
旭
◆
手紙を読み終える前に、恵奈の目からは涙が溢れていた。
旭と仲が悪くなったのは、価値観の違いでも忙しさからでもなく、ただ、気持ちを伝えていなかったから。
お互いに、もう相手は自分に気持ちがないのだと思っていた。
好きなのに、口を開けばケンカばかりで、お互いの気持ちを確かめ合う余裕などなかった。
そうして徐々に心が萎縮し、2人とも素直になれず、自分を守るために攻撃的になっていた気がする。
恵奈は固まっていた心が、じんわり溶けていくのを感じた。
◆
それから8ヶ月後。
恵奈と旭は何度か手紙のやりとりをした。
中学生がこっそり好きな子と交換日記をしているような、むず痒くて幸せな気分だった。
時々電話をするようになり、直接会って話し合う機会も増え、今日恵奈は住んでいたマンションを解約し、戻ることになった。
荷物を運び終え、『La Oliva(ラオリーバ)』でごはんを食べることにした2人。
旭の表情からは、初デートの時のように初々しい愛情を感じ取れる。
「あのさ、引っ越し祝い、何がいい?引っ越し祝いっていうのも変かもしれないけど、何かお祝いしたくて」
「本当?じゃあ…香水」
「香水?」
「うん、新しい香りが欲しいの。今日のこの日の気持ちを忘れたくなくて。旭とやっぱりずっと一緒にいたいって思った気持ちを」
恵奈の言葉に、旭が照れくさそうにはにかむ。
そして「じゃあ、このあと探しに行こうか」と優しく微笑んだ。
▶前回:「何これ…」彼の車の収納を開けたら、領収書の山が。それで発覚した、男の嘘とは
▶1話目はこちら:好きだった彼から、自分と同じ香水の匂いが…。そこに隠された切なすぎる真実
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