2024.10.28
恋のジレンマ Vol.9食事を終えた彩花は、タクシーで代官山にある自宅マンションに向かいながら、橋村の言葉を思い返した。
「結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?」
彼は、誠実な人柄だ。ゆえに、彩花への思いがいかに真剣であるかを訴えたに違いない。
ただ、彩花は即答できなかった。
「もう少し時間をもらえませんか?」
橋村の好意に応じたかったが、真摯に向き合っているだけに曖昧な感情のまま返事をするわけにはいかず、やむなく出した折衷案だ。
「結婚かぁ…」
窓の外を眺めながら、ボソッとつぶやく。
彩花は27歳だが、結婚というものをまだ具体的に考えたことがなかった。
交際して月日を重ねれば、次第に結婚も現実味を帯びてくるものだと理解はしているものの、念頭におかれるとどうも足踏みしてしまう。
― 結婚のフレーズさえなければ、OKしてたんだけどな…。
とはいえ、橋村の存在が自分にとって大事なものであることは承知している。
逃してはいけないという感情と、冷静に対処すべきだという相反する感情が、交錯する。
― う~ん。結婚についてもっと真剣に考えておくんだった…。
人生の岐路に立たされていることを、彩花はうっすらと感じていた。
◆
翌日、彩花は友人の茉莉の部屋を訪ねていた。
「えっ!それってもうプロポーズじゃん!良かったね!」
昨日の件を伝えると、茉莉は我がことのように喜んではしゃいだ。
茉莉とは、知り合ってからもう5年ほど。最初に会ったのは、友人の開いた合コン形式の飲み会だった。
もともと参加予定だったメンバーの代打でやって来た茉莉は、男性陣を押しのけるように率先して場を仕切り、一騎当千の活躍ぶりを見せた。
その男勝りな姿に、彩花は憧れに近い感情を抱き、その会で唯一連絡先を交換。
以来、頻繁に連絡を取り合う親しい間柄となったのだ。
気兼ねなく付き合ってこれたのは、彩花も茉莉も、結婚などまるで意識していないフットワークの軽さが共通していたことが大きい。
だが、今は状況がやや異なる。
茉莉の傍らでは、1歳になる幼い子どもがスヤスヤと寝息を立てている。
「でも私、結婚なんてまったく考えたことなかったから…」
彩花がそう言うと、茉莉は傍らに視線をおとす。
「まあ、私もこの子ができたから、勢いで結婚しちゃったっていうのもあるけど」
1年前、茉莉から突然「結婚する」と聞かされて、彩花は衝撃を受けた。
驚いたのと同時に、憧れの対象がいなくなってしまったような寂しさをおぼえたのを思い出す。
「ずっと、人に振り回されるのは嫌だなって思ってたんだけど、今はなんか心地いいんだよね。嫌なことも含めて、一生をかけて一緒に何かを積み上げているような感覚があって」
幼い子どもに手を添え、慈愛に満ちた視線を注ぐ姿は、血気にはやるかつての茉莉とはまるで違っていた。
かといって衰えを感じるわけではない。命の尊さを知り、人間的な厚みや深みといった要素が増したようである。
「結婚て、意外といいもんだよ」
屈託のない笑顔とともに放たれた言葉が、胸に刺さる。
― 私も、前向きに考えてみようかな…。
彩花の中で、橋村の告白を受け入れる準備が整いつつあった。
例えば、「両親が不仲であまり結婚にいいイメージを持ってなかったので、今結婚前提でと言われると重いです。じっくり付き合ってそれから結婚を考える形でいいなら是非お付き合いしたいのですが、どうですか?」 みたいに。
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