2024.09.25
マティーニのほかにも Vol.11自由への扉
散乱した料理を片付け終わった沙耶香は、気がつくと家を出て、夜の街を彷徨っていた。
足取りは、鉛を引きずるように重い。けれど、これ以上龍一のために設えた空間にこもっていたら、頭がおかしくなりそうだったのだ。
飯田橋の低層マンションを出て黙々と近所を歩くうちに、秋の夜風で頭が冷えていく。
「はあ…。我慢して我慢して我慢して…最後に爆発するクセ、やめなきゃダメだよね」
そう反省できるようになった頃。沙耶香が俯いていた顔を上げると、いつのまにか辺りは楽しげな人々が行き交い賑わっていた。
― 私、いつのまにかこんなところまで来ちゃってたんだ。
沙耶香が立っていたのは、神楽坂だ。様々な飲食店がひしめき合い、お客はみな楽しげにグラスを傾けている。
「いけない、帰らなきゃ」
こんなところをもしも龍一に見られたら、女性が夜に1人でうろつくなんて…と、眉をひそめるだろう。ましてや、お酒を飲みに来ているなんて思われたら…。
と、そこまで考えて、沙耶香はふと思った。
お酒を飲みに来ているなら、なんだというのだろう?どうせ龍一は、今夜も帰ってこないに決まっている。
そう考えると無性に腹が立ってきた沙耶香は、思い立って目の前にあった店の扉を開ける。
その店がバーだとわかったのは、一歩足を踏み入れてからのことだった。
「いらっしゃいませ。お待ち合わせですか?」
「いえ、ひとり…です」
「でしたら、カウンターへどうぞ」
ぽっちゃりとした、人の良さそうな雰囲気の30代のバーテンダーに案内された沙耶香は、磨き上げられたカウンター席へとつく。
― わぁ…。なんかこういうの、すごく久しぶりでドキドキする…!
神楽坂らしいシックな内装のバーで、当然ながら、女性ひとり客である沙耶香を何の違和感もなく受け入れてくれたのが心地よかった。
けれど、こんな場所に来るのは、独身の時以来だ。自分が一体どんなものが飲みたいのか、一体何が好きだったのか。それを一生懸命考えてみるが、どうしても思い出すことができない。
「あの…私、何頼んでいいかわからなくて。どちらかというと、甘いのが好きなんですけど…」
仕方なくおずおずとそう言うと、沙耶香のほかにもうひとりだけカウンターについている女性──とても若く見える、20代の女性客が言った。
「お姉さん、甘いの好きなんですか?だったら私の飲んでるコレ、オススメですっ」
「ちょっと、由依ちゃん…!」
バーテンダーに「由依ちゃん」と呼ばれた女の子が掲げたのは、綺麗なミント色のカクテルだ。
「わあ、綺麗な色」
思わず沙耶香がそう漏らすと、バーテンダーが振り向く。
「こちら、お試しになりますか?」
沙耶香は高鳴る胸を押さえながら、コクリとうなずいた。
カウンターの向こうで、シェイカーにカクテルの材料が一つ一つ注がれていく。
美しいグリーンが映えるミントリキュール。香り高いカカオリキュール。とろりとした真っ白な生クリーム。
それらが氷と一緒にシェイクされている間も、由依ちゃんは終始、バーテンダーに向かってピイピイと可愛らしい雛鳥のようにマシンガントークを続けている。
「それでね、マスター。リョウさんってば私がどれだけ好きって言っても、ぜんぜん振り向いてくれなくて。
やっぱ脈ナシなのかな?それともほかに好きな人いるのかな?どう思う?…」
カクテルを待っているあいだ手持ち無沙汰の沙耶香は、思わず話に耳を傾ける。
― 恋してるんだ。かわいいな…。
そんな由依ちゃんの話を聞き流しながら、バーテンダーは出来上がったカクテルを冷えたグラスに注ぐ。
そして、その美しいミント色の液体が注がれたカクテルグラスを差し出して言った。
「お待たせいたしました。グラスホッパーです」
小さく会釈をして、沙耶香はカクテルグラスのステムを摘む。そして、とろりとしたそのカクテルに口をつけ…驚きに目を見開いた。
「これ…チョコミントだ…!」
小さく呟いた沙耶香の言葉は、隣の由依ちゃんのお喋りにかき消された。
「…あーどうしよう、私、リョウさんに好きな人いたら悲しくて立ち直れないかもー!ねえマスター、リョウさんに振り向いてもらう作戦、一緒に考えてよぉ」
チョコミント味のカクテルをゆっくりと味わいながら、沙耶香はしみじみと思う。
― そうか。普通は自分の大切な人に、好きな人がいたら…辛いんだ。
龍一との結婚生活が破綻していることは、沙耶香にもはっきりわかっていた。
けれど、ゆっくり結婚生活を振り返ってみると──。
龍一から「すごく好きな人ができた」と告白された時は、全く辛くなかったのだ。
辛くなかったから、取り乱すこともなく、“良き妻”としてさめざめと泣いて見せることができた。
龍一にほかに好きな人がいようが、もう別れたのなら、理想の結婚生活をやり直すことができると思った。
だけど、チョコミントを禁じられたあの日。「合わない」と言われたあの日のことだけは、忘れることができない。
龍一と一緒にいる間。思い描く結婚生活を成し遂げるために、自分がどれだけがんじがらめになっているか…。
大好きなチョコミントアイスの味がするグラスホッパーを飲むことで、沙耶香は唐突に、自分の不自由さに気がついたのだった。
― 私、チョコミントが好きだった。それに、派手なメイクも、夜遊びも、外食も…。それから多分、恋も好きだった。
全てを思い出した沙耶香は、ふと、体が軽くなるのを感じた。もう一口グラスホッパーを口にし、ゆっくりと目線を上げると、バーテンダーに尋ねた。
突飛な行動を止める人は、隣にいない。一つ気になっていたことを、確かめたかったのだ。
「あの…お話し中すみません。グラスホッパーって、どういう意味でしたっけ?」
「あ、グラスホッパーって言うのは…」
と、そこまでバーテンダーが言った時、由依ちゃんが口を挟んだ。
「あ、私知ってる!グラスホッパーって、バッタです!ほら、ピョンピョン跳ねる、あのバッタ」
「もう、由依ちゃん…。はい、そうです。緑色がバッタみたいな色だからって、由来になったみたいですよ」
呆れた表情のバーテンダーと得意げな由依ちゃんを前に、沙耶香はもう一度じっとグラスを見つめて、尋ねる。
「ピョンピョン跳ねるバッタかぁ。なんか、いいですね。自由な感じで。
…あの、私また、このグラスホッパー飲みに来てもいいですか?3年も無駄にしちゃったけど、今から自由になっても遅くないですよね?」
バーテンダーは一瞬キョトンとしたあと、優しい微笑みを浮かべた。
「もちろ…」と、そこまで言いかけたその時。またしても由依ちゃんが、誰よりも素早く、弾むような笑顔で答えるのだった。
「いつでも、何杯でも、好きなもの飲めばいいじゃないですか。私たち、いつだって、自由なんだから!」
▶前回:「妻とはもう無理」結婚わずか3ヶ月で、35歳会計士が離婚を切り出したワケ
▶1話目はこちら:国立大卒の22歳女。メガバンクに入社早々、打ちのめされたコト
▶Next:10月9日 水曜更新予定
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