「…いかちゃん…、愛香ちゃん…!」
「へ…?」
「家、着いたよ」
「あ、ありがとう。ごめんね、また寝ちゃった」
オフロードを走行しているとは思えないほどの静かさですっかり寝入ってしまったものの、気がつけば車は、愛香のマンションの前に到着していた。
栄輔の助手席で眠ってしまうのは、初めてではない。栄輔の運転は、ワイルドな見た目に似合わず丁寧で上品で、まるで栄輔という男の子そのままみたいなのだ。
それに、大自然の中で少年みたいにはしゃいで笑う栄輔なのに、帰りの車ではいつだって「疲れてるでしょ。寝てていいからね」と愛香を気遣ってくれる。その言葉には不思議な安心感があり、愛香はついつい毎度、その言葉に甘えてしまっているのだった。
だけど、今夜だけは、栄輔の様子がいつもと違った。
「じゃあ、また…」と言いかけた愛香は、栄輔がじっとこちらを見ていることに気がつく。
そして同時に、栄輔の大きな体がぐいと近づいてきた。
「ちょっと、栄輔くん?」
ドギマギする愛香を、栄輔は真剣な眼差しで射抜く。
「ダメだ。俺、愛香ちゃんのことめちゃくちゃ好きになってる」
「栄輔くん…」
「ねえ、キスしてもいい?」
正直に言えば、栄輔が自分に好意を抱いてくれていることは、わかっていた。最初の誘いがあれだけあからさまだったことはもちろん、感情が素直に出る栄輔の顔を見ていれば、愛香のことを愛しく思ってくれていることは、どんなに鈍感でも伝わってくる。
でも…。
やっぱり、言葉には魔法があるのかもしれない。はっきり「好き」と言われた愛香の胸は、びっくりするほどドキドキしている。静かな車内だと、もしかしたら、栄輔にも聞こえているんじゃないかと思えるほどに。
栄輔の強引さに激しくときめいた愛香は、一瞬思った。
― このまま、流されてみようか…。
けれど、唇が重なるかと思われた寸前。愛香は両手で、栄輔の厚い胸を押し留めた。
まっすぐぶつかってきてくれる栄輔に、まっすぐに向き合わないのは失礼だ。
そう強く感じた愛香は、今の気持ちを正直に打ち明けることにしたのだ。
「ごめん、私…。栄輔くんの他に、もう1人迷っている人がいるの──」
最後の恋にしたいからこそ、栄輔と彰の間で気持ちが揺れ動いていることを、愛香は包み隠さずに告げた。
すると、栄輔は、寸前までいったキスを我慢する代わりに、強く愛香を抱きしめた。
「わかった。ちゃんと言ってくれてありがとう。俺、愛香ちゃんのそういうところが好きなんだ。それに、なんかめちゃめちゃ燃えてきたな。よっしゃ!俺、すげー頑張るよ。最後には絶対、俺を選んでもらうから」
思いもよらない事実を聞かされて、ショックを受けたに違いない。それでも栄輔は、愛香の気持ちを受け止めてくれた。
◆
― 栄輔くん。笑ってたけど、きっと無理させちゃったよね。ごめん…。
奥多摩のデイキャンプから送ってもらった夜から、数日が経った。オフィスのデスクでカレンダーを見ながら、愛香は深いため息をつく。
彰と迷っていると正直に言ったことが、正しいことだったのかどうかわからない。はっきりとわかっているのは、栄輔が強く自分を想ってくれているうえに、とてつもなく優しい男の子だということだった。
PC上のカレンダーの日付は、記念すべき日を示している。
「どうしよう。自分の気持ちがわからないまま、誕生日になっちゃったよ」
栄輔との出会いから3ヶ月。“最高のパートナーと過ごす”と決意した30歳の誕生日は、まさに今日だった。
でも結局、栄輔とも彰とも、デートの約束はしていない。
強く抱きしめられた栄輔の力強さも、彰と繋いだ手の温もりも、まだこの体にしっかり残っている。栄輔と彰、どちらへの気持ちも強まりつつある今、どちらとも会うことはできないと思ったのだ。
― そろそろ、どちらかはっきり選ばないといけない。全力で愛してくれる栄輔くんを、これ以上傷つけられない。
いよいよ仕事が手につかなくなった愛香は、大きなため息をつきながらPCを落とし、オフィスを後にする。
だけど、肩を落としてオフィスのエントランスを出た、その時。愛香は思わず自分の目を疑うのだった。