「え、すぐには手に入らないって、どういうこと?」
帰宅した純司からの報告が、南には信じられなかった。
純司は、ランチ休憩に出た際、「妻からロレックスをねだられている」と同僚に話をした。
すると、同僚は「そりゃ大変だね」と言われたそうだ。
「理由を聞いたら、ロレックスはメンズのスポーツモデルを中心に品薄で、正規販売店に行ったとしても、簡単に欲しいものには巡り会えないって言うんだよ。
どうしても欲しかったら、まずお店に行く予約をして、何回か通ってみるといいよって」
南は、職場のある丸の内から一番近いロレックスブティックを検索した。確かに、予約リクエストが必要と明記してある。
さらに、SNSでロレックスを検索すると、入手困難を嘆くポストばかりが目に付く。
「調べたら、俺の持ってるロレックスでさえ、当時の価格の2倍以上の値がついてるんだ。昔は簡単に買えたのになぁ…。
とりあえず、買えるかわからないけど、いくつかの店舗に来店予約をしてみたら。それか別のブランドにしてみたら?」
「やっぱり、ロレックスがいいけど。何回か通っていたら、お受験が終わっちゃう…」
南はがっくりと肩を落とした。
◆
週末のお教室の日。
それでも、「いい時計」を手にすることを諦めきれない南は、お教室で仲良しのママに思い切って聞いてみることにした。
「早希さんの時計素敵ね。どこで購入されたの?」
「これ、母のお下がりなのよ」
彼女は、手首を傾け文字盤を見ながら答えた。
ホワイトシェルの文字盤は角度によってピンクやグリーン味を帯び、美しかった。
南は家に帰るとジャケットすら脱がず、純司に向かって真っ先にその話をした。
「早希さんのロレックスは、お母様のお下がりなんですって。
私、いつの間にか“いい時計をしないとお受験には受からない”って思い込んでしまってたの。でも、違うわね。
ロレックスが受け継がれるような家庭じゃないと、合格しないってことなんだわ…」
大人げないと思いながらも、南はジメジメと気持ちがしおれていく。
「あのさ…」
黙って南の話を聞いていた純司がいきなり口を開いた。
「いい加減にしろよ。ロレックスだろうが、Apple Watchだろうが関係ないよ。
南が菜乃花のお受験を前向きに頑張れるなら、時計ぐらいと思っていたけど、そんなんじゃロレックスを買っても合格は無理だろ」
南の目尻に涙が滲む。純司はその様子を気に掛けることもなく、不機嫌そうにリビングから出て行ってしまった。
しばらくすると、純司が小さな紙袋を手に寝室から戻ってきた。
「これ、うちの母親から」
高級チョコレート店の紙袋の中には、筆箱のような水色の箱が入っていた。
「開けてみて」
南がそっと箱を開くと、中には小さな腕時計とベルトが横たわっていた。コロンとしたケース(本体)は、1.5センチほどの小ささ。
ゴールドのベゼルは、ギラついた感がなく、アンティークらしい渋みを感じることができる。よくみると、文字盤に小さくROLEXと刻印されている。
「これって…」
「もう廃盤になっているアンティークだけど。1950年代に発売されてたロレックスのカメレオン。何種類かついているベルトは付け替えができる」
先日、純司はたまたま用事があって連絡してきた母親に、「ロレックスが手に入らない」と南とのいきさつを愚痴った。
すると、小学校受験の合否を決めるのは、“子ども以上に親”ということをよくわかっている純司の母は、時計ひとつで南がお受験に心地よく挑戦できるなら、と言って、一本の腕時計を持ってきた。
それは、純司の母自身も、実は義母から譲られた思い出の品だった。
「そんな大切なものを、私に…」
南は、薄いベージュのベルトに付け替え、手首に添わせた。
ジャケットの袖口から覗くゴールドのベゼルは、思いのほか強く出過ぎず、南がこれまで見たどんなロレックスよりも上品でエレガントだ。
南は思った。
義母からの腕時計は、たまたまロレックスだっただけ。この腕時計から受け継がれたのは、この家に継がれる母としての品格。
改めてお受験を頑張ろう、と南は固く誓ったのだった。
◆
菜乃花が年長になった10月。
11月の本番を控え、幼児教室に通う親たちの間にピリピリとした空気が漂っている。
しかし、南は自分でも驚くほど、落ち着いていた。娘と共にできる限り頑張ったという自負もある。
だが、なにより南の手元に寄り添うカメレオンが、お守りのように南と菜乃花を見守ってくれているような気がしていた。
夫の実家で、長い間使われずに眠っていたカメレオン。
一度動かなくなりオーバーホールに出したし、金具が壊れて修理もした。古い故に手はかかるが、時間が経つほどに輝きが増すようだ。
南は、この時計に見合うような女性になろうと、自然と努力するようになった。
それは、きっと数週間後のお受験本番に生かされるだろうと南は思っている。
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この記事へのコメント
いいお話だった。 一話完結みたいなので今後も楽しみ。