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今夜、罪の味を Vol.3

「子どもが生まれてから、夫婦の間に溝ができた…」28歳妻の孤独な夜

有栖川匠

甘い香りに導かれて道を一本奥に入ると、そこには思っていた通りの店があった。

『MM Canelé』──カヌレの専門店。

何を隠そう私はカヌレに目がない。

もともと子どもの頃は本気で「パティシエになりたい」と思っていたほどの洋菓子好きだったけれど、その中でも特にカヌレは私のお気に入りなのだ。

あまりにも大好物すぎて、いつか新婚旅行をするときにはカヌレ発祥の地であるフランスのボルドー地方を巡るか、もしくはスペインのチョコレートのパティスリーを訪れるかのどちらかで迷っていたくらい(結局、授かり婚だったために新婚旅行には行けずじまいになってしまったのだけれど)。

吸い込まれるように店に入りながら、私は不思議な気分に浸っていた。

実は、昨日のどうしようもない愚痴ポストに、通りすがりの見知らぬアカウントからのリプライがついているのを、今朝読んだばかりだったから。

『ダンナさんと、おいしいものを食べてみるといいと思いますね。きっと、幸せな気持ちになります』

― hachiko_※※※※※?…“ハチ公”?誰だろう。でも、それもいいかも。今日は六郎さんもあんまり遅くならないって言ってたし…。

久しぶりにワクワクとした気分になりながら、ショーウインドウに並ぶカヌレを持ち帰り用に包んでもらう。

そして、本当に本当に久しぶりに、六郎さんに菜奈のこと以外の要件のLINEを送るのだった。

『ね、今夜は早く帰るって言ってたよね。最近六郎さんとゆっくり話せてないし、菜奈が寝たあとのんびり映画でも見ない?すごく美味しそうなカヌレを買ったよ───』

『いいね!了解』

返信はすぐに返ってきたのに、結局その夜、六郎さん本人は全然早く帰ってこなかった。

『六郎さん、まだ時間かかるかな?』

21時に送ったLINEは、3時間たった今も既読にならない。

菜奈の寝かしつけを終えた私の前には、菜奈が残した親子丼のどんぶりと、香ばしく甘い香りが漂ってくる白い箱だった。

どんぶりを片付ける気力が湧かない私は、カヌレのお預けをくらいながらインスタを開く。

特に何か新たに投稿する気もなかったから、ただ手持ち無沙汰だっただけだ。

けれど、“ハチ公”さんからのリプライを見て、胸がぎゅっと詰まるのを感じる。

『ダンナさんと、おいしいものを食べてみるといいと思いますね。きっと、幸せな気持ちになります』

そして次の瞬間ふと、怒りとも悲しみともつかない気持ちに襲われるのだった。

― 別に、ダンナさんとじゃなくたって、おいしいものを食べたら幸せになるでしょ。

気がつくと私は、目の前のミニマルな白い箱を、一人ぼっちで開封してしまっていた。


箱の中に入っているのは、さまざまなフレーバーのカヌレだ。

プレーン。フランボワーズ。コーヒー。他にも8種類の違った味のカヌレはどれも小さくて可愛らしく、甘い香りで私を誘惑してくれる。

「いただきます」

1人のダイニングテーブルで誰にともなくそう言うと、私は早速、プレーンのカヌレを口に運ぶ。

「おいしい…!」

カリッとした歯応えが歯に伝わったかと思ったら、すぐに食感はしっとり、そしてもっちりと柔らかく変化する。

甘すぎず、かといって物足りなさは全くない。

― こんなことなら、菜奈にも食べさせてあげればよかったな。

せっかく大人だけで楽しむために買ったカヌレだというのに、結局菜奈のことを考えてしまうことに自分でも苦笑してしまう。

何とも言えない苦々しさを忘れるために、私は次のカヌレに手を伸ばす。

六郎さんが帰ってきたのは、ちょうど私が4つ目のカヌレを食べてしまった、深夜0時半頃だった。


「ただいま〜…」

「お帰りなさい。もう、さすがに遅いよ。連絡もつかないし」

― よかった、カヌレはまだ2つ残ってる。

そんな私の気持ちは、六郎さんに近づいた瞬間に裏切られた。

六郎さんから漂ってくる、つんとしたアルコールの匂い。それから、煙と脂とニンニクの匂い。

「いや〜、久々に加藤と会っちゃってさ。ホルモン焼き屋でしこたま飲まされてきちゃったよ。ベロベロだし、さっと風呂入って寝るわ」

加藤さんというのは、六郎さんの同期だ。一生懸命家族のために働いてくれているのだ。友人と焼肉に行くことくらい、いつでも好きにすればいい。

だけど…。

「まさか…忘れてるの?」

「何が?」

「これ」

冷たくなった指先で、カヌレの箱を指す。すると六郎さんは、すっかり酔いのまわった顔色のまま笑顔を浮かべて言ったのだ。

「おっと、こんな深夜に洋菓子なんか食べちゃって。もっと太るぞ〜。じゃ、おやすみ」

ふらふらとした足取りでバスルームへと向かう六郎さんの後ろ姿を、私は見送る。昨晩と全く同じように。

私にとっては特別だった、ワクワクする時間。それは六郎さんにとっては同期との飲み会に負けてしまう程度のことなのだ。

だって、彼の世界は広いから。

そして私の世界は、とても小さい。

手のひらに乗ってしまうこの小さなカヌレよりも、ずっと小さいのかもしれない。

バスルームから、シャワーの音が聞こえる。

その無情な音をBGMにして、私はもう一度ダイニングテーブルに座り、残りのふたつのカヌレをすっかり平らげてしまった。

『ダンナさんと、おいしいものを食べてみるといいと思いますね。きっと、幸せな気持ちになります』

ハチ公さんのコメントに、このあとなんて返そうか。

『カヌレって名前の由来って、型に入ってる“縦の溝”だって知ってますか?フランス語で溝のことをカヌレって言うんです」

パティシエを目指していたころに得た豆知識を書いてみたら、どんな返事が返ってくるだろう。


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この記事へのコメント

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No Name
最低夫だね。お前が飲む山崎は自分で出して注げよなぁ。早紀は専業主婦しながら出来る、気晴らし程度の仕事を探すに留めておいた方がいいね。フルタイムで仕事始めても六郎は一切家事やらないと思うから。やや育児疲れ(軽いノイローゼ) もあるのかな。友達や夫と比較して悲観的にならない方がいいよ......
2025/12/01 05:2326Comment Icon2
No Name
双葉ちゃん、六郎と付き合わなくて(結婚しなくて) 大正解!
2025/12/01 05:1725
No Name
おっと、こんな深夜に洋菓子なんか食べちゃって。もっと太るぞ〜。
→約束すっぽかした挙句に、デリカシーのない事言うの?素直に謝れないのも含めて最悪😡
2025/12/01 07:3819
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