「ミチが私に頼み事する日が来るなんてねぇ」
19時ぴったりに、ミチは光江の自宅に呼ばれた。元麻布にある5階建てのマンションの最上階を1フロア使ったペントハウスだ。
とはいっても、築40年を超えたビンテージマンションで、元は200㎡を超える5LDKだった間取りを、光江が1LDKにリノベーションしたため、リビングが50畳以上あるという作りになっている。
なにごとにも無機質を嫌う光江の趣味で、室内はオリエンタル調に統一され、10人は座れそうな大きさのダイニングテーブルは、紫檀(したん)で作られていて漆黒に艶めき、脚部には唐草模様の繊細な彫刻が刻まれている。
部屋の四隅には清朝時代のランタン型スタンドが配され、濃い赤のシェードを透かして漏れる灯りは、まるで和ろうそくの火のように柔らかい。
置かれた家具のほとんどが、上海の骨董街で選び抜かれた一点もので、しかもミチが光江に出会った頃からこのリビングに置かれているものばかりだ。
骨董として価値があるものを恐れずに普段使いし、生活に落とし込む光江のセンスは、著名な骨董商にも一目置かれるほどのものだというが、ミチはこの部屋に入るたびに、魔女の館に来た気分になっているということを、光江には口が裂けても言えない。
「あんた、寝不足だね?白茶(はくちゃ)があるから、それにしようか」
それにしようか、と言われてもお茶を入れるのはミチの役目と決まっているので、ミチは黙ってキッチンへ向かった。
キッチンの奥には、“茶葉専用のセラー”がある。ワインセラーを茶葉用に作り替えたもので、中には、中国茶だけではなく、紅茶、日本茶などがそれぞれ壺や筒に入れられ保管されている。
ミチは成人する前…一時期この家で光江と共に暮らしていた。その頃に様々な家事を仕込まれたが(家事だけではないが)、茶の入れ方もその中のひとつだった。
セラーの扉を開け、ミチは『安吉白茶(あんきつはくちゃ)』と記された筒を取り出す。アミノ酸が豊富で、リラックス効果が高いと言われるこの高級茶葉は、光江が睡眠不足の朝によく飲んでいたお茶だ。
ミチは、春の2週間ほどの間にしか摘めないという希少な茶葉を、無駄にすることがないように茶器に入れ、茶葉を焦がすことのないよう熱すぎないお湯を注ぐ。翡翠色の美しい葉が湯に溶けるように広がり、青さを含んだ甘い香りが立ち上ったところで、まずは光江の分を、そして自分にも注いだ。
「アンタは結構、いい男に育ったはずなんだけどねぇ」
白茶の味に満足した様子の光江が、にやにや、といった笑みをミチに向けた。
― やっぱりもうバレてるな。
この記事へのコメント
その通りだと思う、多分その子亡くなったんだよね? だから迂闊なコメントは書けないけれど、暫く仕事から離れて休む事も必要なのかも。ミチと結婚して子供も出来て忙しくするのも、心のリハビリになるかもしれない。
本当にこの連載は続きが気になりますね。