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「ただいまぁ」
週末を迎え、藤ヶ谷での経営者仲間とのゴルフを終えた僕は、夕方には一度家に帰った。
「パパ、お帰りなさいー!」といつもなら飛びついてくるはずの琴美の姿は、なぜだか見当たらない。
― またお義母さんの家に行っているのかな…。
さして気にするでもなく、僕は洗面所で少し白髪が交じり始めた髪にジェルをつける。
家に帰ってきたのは、愛車のアウディを置きにくるため。そして、藤ヶ谷で風呂に入ってしまったから、あらためてヘアセットをし直すためだ。約束の19時まで、そんなに時間はなかった。
「じゃ、行ってきまーす」
呼んでおいたタクシーが到着したという通知が届いたため、ヘアセットを終えた僕はすぐに家を出る。
どうやら亜由美は在宅らしいが、狭くはない家だ。わざわざ出迎えにも見送りにも来ない。
「夕食は済ませてくるのよね、いつも通り」
昨夜は珍しくわざわざ寝る前にそう聞いてきたものの、夕食を家で取らないのは僕ら夫婦にとってはすでに当たり前の習慣だ。
15年も結婚生活を送る上で、亜由美もいつのまにかしっかり分かってくれるようになった。
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タクシーで到着したのは、最近開拓したばかりの赤坂の鮨店だった。
「へえ、二ノ宮さんは年上の男性が好みなんだ?」
「はい。私、けっこうファザコンなんです。それに年上の男性って、こういう美味しいお店もよくご存じだし」
これが、僕の言うところの“権利”。
自分の力で稼いだ金で、現状に欠けている部分を補完する。
妻と娘との幸福な生活に欠けているもの――。それは、ひとりの男として評価されるときめきに他ならない。
娘はもちろんかわいいけれど、子どもが生まれてしまうと、こうした静謐で大人な空間で美食を味わうことは難しい。
もちろん、もう少し…琴美がせめて中学生にでもなったら、テーブルマナーを教えがてら、家族で美食めぐりをするのもいいだろう。
だからこれは、人生をうまくやるために必要な今だけの応急処置であり、対症療法だ。
高収入で身綺麗な40代は、グルメに興味のある若い女性から驚くほど需要がある。
高級なレストランで周りを見渡せば、きっと誰しもが気がつくはずだ。
ある一定の価格帯を超えると都内の飲食店には、成功した大人の男と美しく若い女性のペアが、あまりにも多いということに。
二ノ宮さんとも、グルメ仲間との集まりで出会った。声をかけてきたのは彼女の方からだ。
対症療法といいながら、ひさびさの甘いときめきが胸に広がった時のことはしっかりと脳裏に焼き付いている。
だけど、僕の目的はあくまでも、人生をうまくやることだ。決して若い女性に溺れるような、バカなことはしない。
手の込んだ細工が施された江戸前の鮨を頬張りながら、僕はちらとカウンターの端を見る。
50歳過ぎだろうか。僕より少し上に見える男性と…その隣にいるのは、信じられないほどに整った顔をした美女だ。もしかしたら僕が疎いだけで、有名な女優かなにかなのかもしれない。
ふと、男性の方と目が合った。すぐにお互いに視線を逸らしたものの、僕と彼との間には奇妙なシンパシーがあったことが、一瞬でも感じ取れたような気がした。
匂い立つ成功の香り。全てを手に入れた男ならではの、大人の余裕。
僕の目指すべき人生は、まさにあれだ。
あの余裕からしても、彼もきっと、全てが順風満帆な大人の男性に違いない。
光り輝く人生のほんの少し欠けた部分を真球に近づけるべく、少しの権利を行使している。
男としても、夫としても、そしていつかは父としても、完璧な姿…。
10年後も彼のような姿でいるためには、今のまま、こうして賢く人生を立ち回るのだ。
舌の上でとろける中トロの甘みが、僕に完璧な人生を約束してくれた。
「ん〜♡貴文さん、お鮨めちゃめちゃ美味しいです♡」
「いやあ、本当だね。二ノ宮さんが美味しそうに食べてくれるから、一層美味しく感じるよ」
対症療法の女性と権利の美味を貪りながら僕は、今は義務でがんじがらめになっている自宅のことをふと思い返す。
家を出る時、ちらと見えた琴美の部屋――。
亜由美がいくつものダンボールに荷物を詰めていたのは、夏休みのサマースクールの準備かなにかだろうか?
琴美が留守にしている夏の間なら、妻を少しいい店に連れ出すのもいいかもしれない。
子どもが不在の時には、妻を必ずデートに誘う。
これも多分、人生をうまくやるためのコツになるだろう。
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この記事へのコメント
亜由美さんは今まで色々大変だったと思うけど、弁護士入れてしっかり財産分与と養育費の件やった方がいいよね。最後、貴文のニット全部洗濯機で洗って乾燥機でガンガン回してあげて!