美玖子というのは、元妻の名前だ。
結婚記念日を覚えていないことで美玖子には何度も責められたものだけれど、結婚した年だけは妙に覚えている。2008年、俺が28歳の時。
青春時代に擦り切れるほど聞いていたDragon Ashの降谷建志と同じ年の結婚だったから、妙に頭に残っているのだ。
そして離婚したのは…たしか10年前。
ここでもやはり10年でガラリと状況が変わっているという事実に、俺は思わず苦笑いをこぼした。
「は〜、なんかつまんねぇな」
パラパラとメニューに目を落としていると、どの看板メニューにも美玖子との思い出が結び付いていることに、俺はまたしてもあの虚しさを感じる。
― いや、俺だってまだまだ現役だぞ…!
ふと年齢に抗いたいような気持ちになった俺は、せめてもの抵抗のような、挑戦のような気持ちで、店員を呼んだ。
「すいません、注文お願いします…」
注文を済ませて料理を待つ間、俺は久しぶりに美玖子とのことに想いを巡らせた。
― 元気にしてるかなぁ、あいつ。
離婚の理由は、これといって無い。
…というのは、きっと俺だけの側の見解なのだろう。「これといって無い」ということは、「ほとんどが理由だった」とも言い換えられるはずだから。
あの頃──平成の頃は当然だったように思うけれど、美玖子からしてみれば、俺はあまりにも自分勝手な男だったらしい。
仕事に、飲みに、趣味に、遊びにがむしゃらに全力投球していたら、いつのまにか美玖子は俺の元を去っていた。
子どももいない、夫は帰ってこないでは、結婚生活も続ける甲斐もなかったということなんだろう。
でも──これが男のサガというものなのだろうか?
ひどい別れ方をしたのに、俺の方はといえば不思議と、美玖子とのいい思い出しかしか思い出せないのだ。
一緒に過ごした時間は楽しかった。俺の周りにいた女性の中では珍しく、よく食べてよく飲む女だった。それもあって、この店にか細いだけの美女を誘う気持ちになれなかったのかもしれない。
― あいつの美味そうに食べる顔を見て、結婚しようって思ったんだっけな。
しみじみとそんなふうに考えていたその時。ついに料理が運ばれてきた。
けれど、肉汁の滴る極上の料理を前にして、俺はつい声に出してしまったのだ。
「うぉ…」という、情けない声を。
目の前に並んだのは、どでかいステーキ。さらにはナポリタンが乗ったハンバーグに、ザクっとジューシーそうなカツレツだ。
どれも、美玖子とよく食べたメニュー。
“現役”に戻ってやろうと意気込んで注文したものの、こうして1人のカウンター席に並べてみると、溢れんばかりの肉汁を認めた肉料理はとてつもないオーラを放っていた。
「…よし」
気圧されてたまるか、と、俺は料理に手をつけ始める。とてつもなく美味い。
美味い、けれども、現実は容赦なく俺に詰め寄りはじめる。
変わらない体形も、磨かれたセンスも、セクシーなバツイチの経歴も関係ない。
― 美味いけど、美味いけど…これは───。
食べきれない。
「負けをみとめろよ」と、胃袋が語りかけていた。
胃袋だって、45歳。素直に負けを認められる分、どうやら俺よりも大人みたいだ。
◆
20分後。俺の隣に座っているのは、学生時代からの腐れ縁・洞沢だった。
「…もしもし。俺だけど…今ちょっと出てこられないか?うまいメシおごるから」
大量の肉の前についに沈黙するしかなくなった俺は、ポケットからスマホを取り出して、そう電話をかけたのだ。銀座で働いているこいつを呼び出すために。
「うまいな〜!子どもが小さいとなかなか外食もしづらいから嬉しいよ。呼んでくれてありがとな」
そう言いながら頼もしく料理を平らげていく洞沢は、お世辞にも“現役”とは言い難いように見える。
体は学生時代より一回りは大きくなっているし、たしか、子どもは小学生といっただろうか?家庭がある男特有の安定感があって、熱いものを内に秘めている様子は一切見えなかった。
だけど俺は、そんな洞沢を前にして密かに思う。
― こいつ、かっこいいな…。
家庭を持つということは、自分よりも大切な誰かを守っているということだ。
きっと洞沢は仕事はともかく、飲みに、趣味に、遊びにがむしゃらに全力投球なんてことは、とっくに卒業したのだろう。
バツイチにもならず、1人の女性と家庭に向き合っているのだ。
俺が、美玖子にはしてあげられなかったこと。そういう意味では、腹についた多少の肉こそ、45歳の男の勲章だ。
なんだか急に、“現役”かどうかなんて考えている自分自身がとてつもなくダサく思えてきて、俺はおもむろに洞沢に声をかける。
「おい洞沢、乾杯しようぜ」
「え?また?」
「いいから、ホラ」
グラスが合わさる音を聞きながら俺は、またしても密かに考えた。
― 自分のペースを誰かに乱されたくない…なんて、言い訳してたな。45歳のいい大人なんだから、現役に戻るんじゃなくて、アップデートしなきゃだよな。
もたれた胃袋と、かっこいい洞沢に何かを教えられたような気がした俺は、45歳の大人の男として、改めて時代に追いついてみたいと素直に感じた。
愚痴を吐くのはもうやめだ。
でも、乾杯の時に小さな声で美玖子に「ごめん」と謝ったのは──恥ずかしいから忘れようと思う。
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