2019.12.09
婚前契約 Vol.2
「婚前契約書…!?信じられない」
「何それ。明久さん、失礼すぎる。そんな男やめときなよ!」
大手化粧品会社で働く同期二人とのランチタイムで、私は“最悪のプロポーズ”について遠慮なく愚痴った。
最近ハワイ挙式をし、ハレクラニのスイートルームに宿泊したという夏菜子は、もはやかける言葉もないといった表情でこちらを見つめている。
「絵麻…明久さんとの結婚、考え直した方がいいんじゃない?」
「私もそう思う。絵麻なら他にいくらだっていい人見つかるんだし」
同期ふたりは口々に「結婚しない方がいい」と言い、「絵麻にはもっと良い人がいる」と一生懸命に励ましてくれた。
−やっぱり、そうだよね…。
彼女たちがそう言うのも当然だ。
私だって、まさか恋人である明久から「婚前契約書を交わしたい」などと言われるとは思ってもみなかった。
これまで彼を信用し、支え、たくさんの時間を共有してきたというのに、なぜそんなことを言うのか。それについて考えると、心が灰色に曇って息苦しくなる。
彼が婚前契約を結びたがる意味。それはつまり、彼が「自分の財産を守りたい」「妻に取られたくない」と思っているということだろう。
−私、今までずっと支えてきた。これからだって、彼の一番の味方でいようって。そう思っていたのに…。
考えれば考えるほど、悲しくなる。
悶々とした気持ちを抱えたまま、私はどうにかその日の仕事を終えると、どこにも寄り道することなくまっすぐ恵比寿の自宅に帰った。
◆
さっさとシャワーを浴び、無音の空間を誤魔化すようにテレビをつける。
何気なく聞き流していたが、突然「婚前契約書」というワードが流れてきて、思わずテレビ画面を食い入るように見つめてしまう。
どうやら最近は、日本でも結婚前に婚前契約を結ぶカップルが少しずつ増えてきているそうで、番組の取材で、実際に婚前契約書を締結した二人にインタビューをしているのだった。
一組のカップルが、公園のベンチか何かで取材に応じている。すると、女性の方が微笑みながらこう言った。
『婚前契約書って、妻にも大きなメリットがあるんです』
どういうことなのか。
一言も聞き漏らすまいと真剣に耳をすましていると、彼女は意外な事実を教えてくれた。
『例えば、結婚して子どもができて専業主婦になった場合、女性は収入がなくなりますよね。だけど本来は、家事や育児だって立派な仕事。給与に代わるような見返りがあって然るべき。婚前契約書では、夫の収入の何パーセントかをもらう、などの取り決めもできます』
−え…?そうなの…?
プロポーズの高揚とその後の落胆ですっかり頭から抜け落ちていたが、よくよく考えてみれば私にだって、結婚に対する不安要素はあった。
私は今、大手化粧品会社に勤めており、仕事にはやりがいを感じている。
しかしもし結婚して子どもができたら、明久は会社の経営に専念するためにも、私に専業主婦として家に入ることを望むだろう。
彼を一生懸命支えたいとは思っているけれど、本音を言えば、仕事を辞めることにまったく抵抗がないわけではなかった。
退職して自分の給与がなくなることで、これまでのようには気兼ねなくお金を使えなくなる、というのももちろん理由のひとつだ。
だがそれ以上に不安なのは、今まで会社組織で働き、仕事が大好きだった私が、専業主婦としてうまくやっていけるのかということだった。
だけど、テレビの中の女性が言うように、給与が貰えるような感覚で自分の取り分があるのなら…。
家事育児が「評価されている」と実感できるかもしれない。
忙しい明久が全く家のことに協力してくれなかったとしても、割り切って構えられそうな気がする。
−婚前契約書で、妻の取り分を夫の収入の何割、と決めておけるのは、私にとってもかなりメリットなのかも…。
しかも、夫の収入が上がれば自分が貰える分も増えることになるので、パートナーを支えようというモチベーションにもなりそうだ。
画面の中で、女性はさらに続けた。
『あと、万が一離婚した場合のサポートを決めておくこともできます。仕事を辞めて夫を支え続けてきたのに、離婚することになったら、何年もブランクのある妻が社会復帰するのはそう簡単ではないですよね?
それが不安で、本当は夫婦生活が破綻しているのにもかかわらず、離婚できないという女性も多いでしょう。
婚前契約書では、もし離婚したら、夫が妻に一定期間決まった金額を払う、など決めておくことが可能なんです』
−なるほど。
私はテレビの中の彼女に大きく頷き、そして心の中で一つの決心を固めた。
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