病める時も、ふくよかなる時も Vol.4

「危ない...!」男性客で賑わうボルダリングジム。目眩に襲われた主婦を救った、男の正体とは

山田さんは、じっと美月の顔を見据えながら言う。

「うーん…。美月先生、今日のパン味見した?なんかいつもと味が全然違ったよ」

「えっ…」

固まる美月の目の前で、山田さんが「ね、小野さん?」と同意を促している。

話を振られた小野さんは困ったように目を泳がせると、チラッと美月を一度見て、気まずそうに頷いた。

「ごめんね。パン持って帰りたいって言ったけど、やっぱりキャンセルで!じゃあ、失礼します〜。また〜」

そう言うや否や、山田さんはさっさと玄関で靴を履き始める。その横で小野さんが申し訳無さそうにお辞儀をしたかと思うと、あっという間に2人は退出してしまったのだった。

「ちょ、ちょっと…」

2人を引き止める声が、誰もいなくなった玄関に虚しく響く。美月は慌ててダイニングへと戻ると、籠に残っていたパンをちぎり口に放り込んだ。

確かに、いつもよりもリッチさが足りない。そして、その原因についての心当たりは、明確にあった。

美月特製のデニッシュ食パンは、いつもなら大量にバターを使うパンだ。だが今回は、調理中にあまりのバターの多さに急に罪悪感が湧き、何割かをアドリブでオリーブオイルに置き換えたのだった。

この2週間、食事制限のために味見を控えていた美月の頭から、一瞬で血の気が引いていく。完全に、料理講師としての自分とダイエット中の自分の公私混同が招いたミスだった。

―私、最低だ。生徒さんに申し訳ない…。女としても失格なら、料理の先生としても失格だよ…。

天井が回るようなめまいが美月を襲う。

それが、ダイエットを始めてから度々起こっているめまいなのか、仕事の失敗のショックによるものなのか、今の美月には判断がつかなかった。


土曜日の夜。前日のショックから立ち直れずにいる美月は、ベッドで力なく体を横たえていた。

誠司はすでに、隔週恒例のポルシェソサエティに出かけてしまった。現在が午後7時だから、もう2時間も前だ。つまり、美月も2時間倒れ込んでいることになる。

クリニックのテーマカラーと同じカラーリングだというミントグリーンの911は、もう富士についただろうか?美月は、お腹をさすりながら誠司のことを考える。

だが、いつもなら誠司のことを考えればすぐに胸の中が暖かくなるはずなのに、今の美月にはいまいち効果が無いようだった。

―はあ…。なんだか、何にもやる気が起きない…。

昼食に誠司に付き合わされた『香湯ラーメンちょろり』と、昨日の料理教室での失敗が、ダブルの罪悪感となって美月の胃にもたれている。

美月には珍しく、全く食欲が湧かない。なにもかもがうまくいかない憂鬱な状況の中で、たった1つそのことだけが良いニュースのように思えた。

―もう7時か…。食欲がないとはいえ、夕食にしなきゃ…。

美月は力が入らない体をどうにかベッドから起こすと、フラフラとした足取りでキッチンへと向かう。そして、冷蔵庫の扉を開き、一本の大きな瓶を取り出した。

“発酵野菜の底力♡キューティースリム酵素”

ピンクのラベルには、金色の箔押しが輝いている。

桐乃のインスタを覗いている時に出てきた広告で、「1ヶ月でマイナス10kg‼︎」という謳い文句に惹かれて購入した、高価な酵素ドリンクだった。

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