2019.06.18
港区モード Vol.4千沙ちゃんの質問に答えようと言葉を探している時、私たちのテーブルの横を、一人の男性がカウンターへ向かって颯爽と歩いて行った。
上質な生地の、薄手のスプリングコートの裾がひらりと軽やかに揺れている。
「あれ、あの人…」
私と千沙ちゃんの声が重なり、お互いに驚いた顔を向け合った。
「え、知り合い!?」
私たちの言葉はまた綺麗に重なり、今度は同時に笑い合う。
ひとしきり笑った後、お互いに知り合いではないけれど港区内で何度か見かけたことがある男性ということが判明した。
彼は、カウンターに一人で座っていた女性のもとへ近づき、そっと彼女の肩に触れて、隣の椅子に座った。
後ろ姿だけでも美人とわかる、女性の佇まい。そんな二人の様子に、千沙ちゃんも私も無言で見とれてしまっていた。
—あの人もきっと、誰かの「最後の男」なんだろうな…
ぼんやり考えていると、千沙ちゃんのわざとらしい咳払いで私の意識が戻された。
「で、薫さん。博樹さんとは?」
早く続きを聞きたいらしい千沙ちゃんを、少し勿体ぶるように私はワイングラスを持ち上げ、ワインをゆっくりひと口流し込んでから言った。
「何もない。これからも、会うつもりはないし」
「え、本当に?何で?」
心底意外だったらしく、千沙ちゃんが何度も「何で?」と聞いてくる。でも実は、自分でもこれは意外な展開だった。
「博樹と再会したその日、家に帰って夫の顔を見たら、自分でもびっくりしたんだけど、なんだかすごくホッとしたのよね。
夫のことを条件で選んだと思ってたけど、結婚して5年も経ったから当時の気持ちを忘れかけてただけで、夫は、誰よりも私に安心感を与えてくれる人だから、私はそんな彼を大好きになったんだって、思い出しちゃった。博樹のことは、思い出として過剰に美化されてただけみたい」
私が笑って話すと、千沙ちゃんはなぜかホッとしたような表情に変わった。それを見て、やっぱりこの子はとても純粋なんだとあらためて思う。そして私は、こう続けた。
「夫がいて、帰る場所があるから、私はそれに甘えてるんだと思う。それで、ちょっとした刺激を求めて既婚者食事会に行ってる“不良妻”なだけで」
決して褒められることではないと分かっているけれど、そうしてバランスを取ることが一概に悪いことだとも思えない。
「えー、結婚ってそういうもの?そういう考え方ってアリなの?」
千沙ちゃんは私の考え方に、あまり納得がいっていない様子だ。けれど結婚生活は、夫婦の問題。私たちはこれでうまくいっているのだから、「あんまり責めないでよ」と笑って、それ以上の突っ込みは回避させてもらった。
「千沙ちゃんは、もうすっかり元気そうじゃない」
無理矢理、千沙ちゃんの恋愛話にすり替える。「そんなことないですよぉ」と言いながらも、その表情は明るい。
今夜はこのまま、千沙ちゃんと一緒にワインをあと1杯ずつ飲んだら、タクシーに乗って自宅に帰ろう。
明日の朝は、夫の分のコーヒーも淹れて、互いにバタバタと身支度を整えて慌ただしく家を出るだろう。週末は夫と一緒に、近所のワインバーにでも行こう。
夫婦だからと言って、すべてを共有する必要はないはずだ。ただ、譲れないものはいくつか持っておく必要はあると思う。
私にとって、譲れないことの一つはきっと…。
夫の「最後の女」になることだ。
—Fin.
「港区モード “最後の男編”」は終了です。 来週から港区モードの新シリーズがスタート!
今週の港区モード:「ダンヒルのスプリングコート」
英国紳士の中で脈々と受け継がれてきた美学“アンダーステイトメント=控えめな表現”を体現するダンヒル。
水を湛えたような光沢と適度なハリ感とを兼ね備えたキッドモヘアにしなやかな肌触りのウールを混紡した生地を、現代的なブリティッシュテーラリングによって構築的ながらも軽やかに仕立て上げる。
その軽やかさは、港区において何にも囚われない大人の“身軽さ”にどこか通ずるものがある。また、シングルながらも深めな フロントの合わせが、まるでダブルのコートを纏ったかのような貫禄を演出。成熟した大人にしか似合わない理由はそこにある。
船田さんも毎週、さらっと登場してくれて、ありがとうございました。私の最後の男は夫かどうかは置いといて(笑)、私も夫の最後の女でありたい!
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