オールドリッチの悲哀 Vol.1

オールドリッチの悲哀:資産が数十億あっても満たされぬ。不自由ない人生で感じる虚しさ

プライドと安定。オールドリッチのボンボンの幸せは、どちらなのか


蒼白なゆかりの顔を見て、康介は罪悪感に襲われた。

しかし今夜は、チラチラと目に入る日経新聞のせいか、ただ単に酔っているだけなのか、これまで決して口にしてこなかった言葉が溢れてくる。

「俺さあ、会社を辞めて起業したいんだ。…ずっと考えてたんだ。どこまでやれるのか、自分の力を試したいって」


康介の心の中では、長年くすぶってきた想いだった。しかし、ゆかりにとっては晴天の霹靂だろう。

ゆかりが康介を選んだ理由には、同じオールドリッチ同士リスクの少ない豊かな生活を送れる、という思いも少なからずあったはずだ。

会社を辞めるなんて、父が許す訳がない。少なくともこの家は出ることになるだろう。失敗したら…健一の親権すら両親に譲るように言われかねない。

盤石なオールドリッチの生活が、自分の夢のせいで崩れてしまうかもしれない。苦労知らずのお嬢様であるゆかりが、そんな一か八かのチャレンジを受け入れられるはずもなかった。

「そんな…岩原家の後ろ盾なしに、健一のお受験はどうなるの?もし起業に失敗したら、世間からどう見られるか…」

ゆかりが悲痛な声でつぶやく。その怯える姿を前にして、康介は大きな無力感を味わうとともに、少しの安堵も覚えるのだった。

乾いた笑いが口の端から漏れる。

「…ちょっと飲みすぎたみたいだ。もう寝るよ」

立ち尽くすゆかりをリビングに残したまま、康介は寝室へと向かった。



翌朝8時。遅めの朝を迎えた康介は、着替えを済ませリビングダイニングへ向かった。

「康介、おはよう」

慌ただしく健一の世話を焼きながら、ゆかりが声をかけてくる。いつもと変わらない朝。昨夜の出来事など夢だったかのようだ。

食卓につき、テレビを点ける。二日酔いの頭で朝のニュースをぼんやり見つめていると、ゆかりが熱いコーヒーを運んできてくれた。

当たり障りのない家族の会話を交わしていたその時、テレビの画面に清水が映った。清水の会社がついにマザーズ上場を果たすらしい。ボリュームを上げようとリモコンに手を伸ばしたその時だった。

ゆかりが恐ろしい勢いで目の前のリモコンを奪った。

驚いてゆかりの顔を見上げる。能面のように真っ白な顔のゆかりが、テレビを消した。

「康介。そろそろ出勤の時間じゃない?」

にっこりと微笑むゆかり。その微笑みに、昨日までは活力をもらっていたはずだった。しかし、今はただ薄ら寒いものを感じる。

言われるままに玄関へと追いやられる。恭しくスーツの上着を着せながら、ゆかりは言った。

「康介、私思うの。この生活を守っていくことこそが、私たちの幸せであり使命だって。だから、おかしなこと考えないでね」

『バカなこと言ってないで、考え直せ…』

ゆかりの言葉に、父の言葉が重なる。重たい扉が閉まった。

ー少しでも応援してもらえると思ったか?

ーこれでいい。今日も、不安のない穏やかな1日が始まる。

ー俺は一族の汚点にならずに済むし、妻は安心していられる。健一も母校へと進学するだろう。

グルグルと考えが渦巻く中、スマホで先ほどのニュースをチェックし直す。画面には、清水の笑顔が映っている。

康介は強い敗北感を体の奥へと押し込むように、ごくりと息を飲み込んだ。


▶NEXT:9月29日 土曜更新予定
ド派手ニューリッチ達が台頭する名門校で、斜陽オールドリッチたちの立場は?

この記事へのコメント

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No Name
代々続く~、老舗の~、家柄の~、って家の人は多かれ少なかれこういうくすぶった思いを持ってるんだろうなあ。ただ「自分にはできる」って言うのが下駄はかせて貰ってる場合もあって、一人になったとたんに看板とか名前とか会社にどれだけ守られてたか痛感するって、よくあるよね。
2018/09/22 05:3499+返信14件
No Name
本当に心の底から起業したいなら、とっくにしてると思うので、これは起業スルスル詐欺ですね。
2018/09/22 05:3299+返信5件
No Name
無い物ねだりってヤツです。
ゆかりも心の中では清水が伸びていくのが羨ましくて、ケチつけたいだけ。
2018/09/22 05:4499+返信1件
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